島津家久くんと鳥取・島根を旅しよう!その6(家久君上京日記・島根県西部編)

(石見中部のルート。実際の道は考慮せず通過した場所を直線で結んでいます)

6月27日:「廿七日、未刻に濱田といへる所に着、宿大賀次郎左衛門、さて京泊の船頭尾張樽持来たり候、亦千兵衛樽」
 27日の14時前後に「濱田」(島根県浜田市長浜町の浜田港)到着。浜田からは一気に長崎県の平戸まで戻るため長距離の船待ち。特に変わったこともないため読み下し文は載せず簡単に家久の毎日を紹介する。
6月28日:鹿児島衆(鹿児島の城下町の人達か?)や先日の加治木衆・秋目衆などが来て宴会で乱舞。
6月29日:坊津衆(鹿児島県南さつま市坊津町の人達)の藤十郎と会う。浜田の町を見学。
7月1日:鹿児島の町衆が食事を用意する。
7月2日:秋目衆の者が酒樽を持ってくる。喜入の船員に酒を振る舞う。
7月3日:しらハ衆の者が酒樽と魚を持ってくる。
7月4日:入来衆の者が酒樽と食籠(食物を入れる容器)を持ってくる。
7月5日:左近兵衛という者が魚を持ってくる。
7月6日:市介という者が「そうめん」(素麺。そうめんカボチャかと思ったが、この頃は伝わっていなかった)と熟した瓜を持ってきた。
7月7日:宿の亭主の親で「こんき」という僧が徳利を持ってきた。それを船頭に飲ませたところ皆が酔っ払い舞をするなど一日楽しく過ごした。夜には鹿児島の町人・中村次郎四郎が酒樽や魚などを持ってきた。
7月8日:秋目の船頭が魚を持ってきた。
7月9日:浜田の町にあった風呂に行く。帰りに尾張という者が瀬戸ヶ島(浜田市瀬戸ヶ島町)に船を着け「この船に乗るといい」と言われたので乗り移り、やがて酒宴となって夜明け前に宿に戻った。

 家久には連日のように酒が届いていた。当時としては一生に一度あるかないかの大旅行の終盤。しかも特にすることもなかったため、旅行を振り返りながら昼夜飲んでいたと思われる。
 浜田では特別なことがあった訳では無いが、家久にとって思い出の場所になっただろう。

(浜田港。戦国時代は海外との貿易港としても栄えた)

(夕日パーク浜田から見た浜田港と夕日。帰りの近づく家久が夕日を見て何を思ったのかは記録にない)

7月10日:申の刻(16時前後)に平戸に向かって出港した。翌日には大風で難儀したが12日には無事、平戸に到着。7月20日は薩摩に戻った。
 この家久の道中は、九州では敵地を抜けることもあって関所の番人と家臣が大喧嘩になり番人をボコボコにするなど波瀾万丈だったが、鳥取県と島根県は直接利害関係の無い土地だったためか平穏に通り過ぎている。最大のトラブルは大山寺に向かう道で腹痛になったくらいか。
 現在では航路は無理だが陸路は可能なため車で家久の旅路を辿るのも楽しいのではないだろうか。鳥取県若桜町をスタート→吉岡温泉で一泊→米子市に一泊→温泉津温泉で一泊→浜田市、の三泊くらいあればゆっくりと見て回れると思う。

(鳥取・島根県での家久のルート。実際の道は考慮せず通過した場所を直線で結んでいます)

(家久くん、お疲れ様でした。写真は鹿児島県日置市吹上町永吉に建つ家久の墓)

参考文献など:家久君上京日記(五味克夫編)、東京大学資料編纂所所蔵「中務大輔家久公御上京日記」、島根県の地名、徒然草独歩の写日記

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島津家久くんと鳥取・島根を旅しよう!その5(家久君上京日記・島根県中部編)

(24~26日(石見東部)のルート。実際の道は考慮せず通過した場所を直線で結んでいます)

6月24日:「廿四日、しまつ屋の関とてありしかとも、亭主の書状を以安く通候、さてはねの町を打過、梁瀬のしゅく、尚行て大田といへる村、門脇対馬といへる人の所に立寄徊らひ、さて行々て石見のかな山清左衛門といへる者の所ニ一宿、夜入加治木衆早崎助十郎・久保田弥三左衛門酒持來候、亦一閑うりもてはやし候」

 「しまつ屋の関」(島根県大田市朝山町仙山島津屋。出雲と石見の国境にある関所だった)を亭主(前日に泊まった家の主人の清左衛門か?)の書状で容易に通り抜けると、「梁瀬のしゅく」(島根県大田市久手町波根西)を通過し、「大田といへる村」(島根県大田市大田町)の門脇対馬の家に立ち寄る。そして「石見のかな山」(島根県大田市大森町にある石見銀山)の清左衛門の家に泊まる。この清左衛門と先日の清左衛門は同名の別人だろう。
 夜になると「加治木衆」(鹿児島県姶良市の加治木の人達)の早崎助十郎と久保田弥三左衛門(弥彦左衛門とも)が酒を持ってきた。「一閑うり(『一閑たり』とも)もてはやし候」は意味が良く分からないが、一閑(一貫≒4キロ)分の瓜で持てなしてくれたということだろうか?
 昔、史跡巡りの本で家久が「しまつ屋の関」を抜ける際、同姓だったため容易く通れた、という文章を読んだ記憶がある。しかし改めて調べてもそんなことはどこにも載っていない。亭主の書状が残っていて記載があるとも思えないし、単なる私の記憶違いか。

(石見銀山の龍源寺間歩)

6月25日:「廿五日、打立行に、肝付新介に行逢候、加治木衆三十人ほと同行、さて西田の町を打過、湯津に着、其より小濱といへる宮の拝殿にやすらふところに、伊集院に居る大炊左衛門、酒瓜持参、さて湯に入候へは、喜入殿の舟に乗たる衆、秋目船の衆、東郷の舟衆、しらハ衆、各すゝを持来り候、其より小濱のことくまかり、出雲之衆、男女わらハへあつまりて能ともなし、神まひともわかぬおひいれ、出雲の歌とて舞うたひたる見物し、其より小濱のはたこやにつき、亦湯乃津のことく歸り候へハ、船頭各々我々船に乗候へと申間、寔いせひを仕候、夜入候て、関東の僧とて見参有へき由候間、斟酌候へ共、薩摩にて聞給しとてすゝを持せ、与風来られ候間、無了簡參合、亦亭主よりもすゝを得させ候、亭主小四郎」

 石見銀山を出発しすると、加治木衆三十人を同行した「肝付新介」(島津氏の家臣・加治木肝付氏の一族か?)と会う。「西田の町」(島根県大田市温泉津町西田)を経由して「湯津」(島根県大田市温泉津町温泉津)に到着。「小濱といへる宮の拝殿」(島根県大田市温泉津町小浜の神社の拝殿。厳島神社のようだ)でたたずんでいるところに「伊集院」(鹿児島県日置市伊集院町)にいる大炊左衛門が酒と瓜を持参した。
 そして温泉津温泉で一風呂浴びると「喜入殿の舟に乗たる衆」(島津氏の家臣・喜入氏の人達)、「秋目船の衆」(鹿児島県南さつま市坊津町秋目の人達か?)、「東郷の舟衆」(鹿児島県薩摩川内市東郷町の人達)、「しらハ衆」(不明)の者達が各々「すゝ」(錫で出来た徳利)を持って来た。出雲の「男女わらハへ」(男女の子供達)も集まって能とも神舞とも分類できないものを出雲の歌と共に舞ったのを見物した。
 この踊りがのちに出雲阿国が京都で始めた阿国歌舞伎の元ではないかという説もある。「神まひともわかぬおひいれ」の「おひいれ(おひハれ、とも)」の意味は不明。何にしてもこの時は薩摩の人達が集まって浜辺で出雲の舞を興味深く見物したようだ。

(温泉津港。石見銀山から出た銀の輸出で栄えた。この近くの浜辺で家久達は出雲の舞を見物したのだろう。当時の温泉津港はここでは無く沖泊が中心であった)

 それから「はたこや」(旅籠屋。宿)に着く。「湯乃津のことく歸り候へハ」(温泉津に帰ろうとしたら)、船頭達が自分の船に乗って下さいと申し出た。その間「寔いせひを仕候」をしたらしい。
 「夜入候て、関東の僧とて見参有へき由候間、斟酌候へ共、薩摩にて聞給しとてすゝを持せ、与風来られ候間、無了簡參合、亦亭主よりもすゝを得させ候」も意味が分からなかった。
 夜になって関東の僧という者が会いたいと言って来たので酒を飲んで待っていたら「薩摩で名前を聞きました」と、不意に僧が来たので考える暇も無しに会うことになった。また宿の亭主からも酒をもらった。というような内容だろうか。

6月26日:「廿六日、順風なくて留ぬ処に、入木の別當権左衛門、太平寺領の者善左衛門すゝを持參、さて出湯に入歸候へは、亭主會尺、酒えんさま々也、さて俄に追手の風有し間、犬の刻に出舟、さて三そうの船とう舟衆に酒たへさせ候」

 小濱で風待ちをしていたところ、「入木の別當」(鹿児島県薩摩川内市入来町の寺の別当)の権左衛門と「太平寺領」(鹿児島県薩摩川内市大小路町の泰平寺の寺領か? 泰平寺は九州攻めで島津義久が豊臣秀吉に降伏した際会見したことで知られる)の住民・善左衛門が徳利を持参してきた。そして風呂から上がると宿の亭主が挨拶し酒宴になった。そのうち追い風になったため犬の刻(戌の刻。20時前後)に出航した。そして三艘の船頭や船員に酒を振る舞っている。

(島根県江津市波子町の波子海岸。家久らはこの沖を航海している)

参考文献など:家久君上京日記(五味克夫編)、東京大学資料編纂所所蔵「中務大輔家久公御上京日記」、島根県の地名、全国国衆ガイド、京都錫右衛門SUZUEMON徒然草独歩の写日記

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島津家久くんと鳥取・島根を旅しよう!その4(家久君上京日記・島根県東部編)

(22日前半のルート。実際の道は考慮せず通過した場所を直線で結んでいます)

(22日後半のルート。実際の道は考慮せず通過した場所を直線で結んでいます)

6月22日:「廿二日、明かたに船いたし行に、出雲乃内馬かたといへる村にて関とられ行に、枕木山とて弁慶の住し所有、其下に大こん嶋とて有、猶行てしらかたといへる町に舟着、小三郎といへるものゝ所ニ立よりめしたへ、亦舟押行に、右に檜之瀬とて城有、其より水海の末に蓮一町はかり咲亂たる中を、さなから御法の舟にやとおほえ漕通、平田といへる町に着、九郎左衛門といへるものゝ所に宿、拾郎三郎よりうり亦玄蕃より酒あつかり候」

 「明かたに船いたし行に」、前日に米子で宿泊しているため米子港に間違いない。そして鳥取県を跡にして中海を航行し島根県に入った。「出雲乃内馬かたといへる村」(島根県松江市馬潟町。中海から宍道湖に入るための水上の要衝)で通行税を取られた。そこから先に進む際に北にある「枕木山」(島根県松江市枕木町)や「大こん嶋」(島根県松江市八束町)を見ながら「しらかたといへる町」(島根県松江市白潟本町)に船が着いたので昼食を取っている。
 船は更に進んで宍道湖に入り、「檜之瀬とて城」(島根県出雲市多久谷町にあった檜ヶ山城)を見たり蓮が咲き乱れる中を「法船(仏法を、衆生の沈溺を救う船にたとえていう語)のようだ」と感じながら通り過ぎて、「平田といへる町」(島根県出雲市平田町)に到着。宿に泊まって瓜や酒を受け取っている。

(米子港)

(中海)

(枕木山の山頂に建つ華蔵寺。弁慶が修行したという伝説があり、家久の言う「枕木山とて弁慶の住し所有」とはそのことだろう)

(中海に浮かぶ大根島全景。名前の由来は「たこ島」が訛ったものと言われる。大根の名産地では無く、形が似ている訳でも無い)

(23日(出雲西部)のルート。実際の道は考慮せず通過した場所を直線で結んでいます)

6月23日:「廿三日、打立行て、きつきの大社に參、それより行々て大渡といへるわたり賃とられ、さて行て崎日といへる町の清左衛門といへるものゝ所ニ一宿、下總酒もてあそひ候」

 「きつきの大社」(杵築の大社。島根県出雲市大社町杵築東にある出雲大社のこと)を参詣、その後に「大渡といへるわたり賃とられ」ている。当時の出雲大社の近くに斐伊川の河口があり、島根県出雲市大社町杵築西にあった大湊から島根県出雲市外園町の園湊に渡ることを「大渡」と呼んだ。
 それから「崎日といへる町」(島根県出雲市多伎町口田儀)に宿泊している。

(出雲大社)

参考文献:家久君上京日記(五味克夫編)、東京大学資料編纂所所蔵「中務大輔家久公御上京日記」、島根県の地名、中世水運と松江~城下町形成の前史を探る~、松江観光協会八束町支部のサイト、徒然草独歩の写日記

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