桶狭間古戦場巡り2010(高根山・七ツ塚・戦評の松・松井宗信の墓)

 2010年11月28日(日)、桶狭間古戦場保存会主催の桶狭間古戦場巡りに参加してきた。12時、有松駅に集合して出発。

(有松駅にあった案内版)

1.高根山・・・名古屋市緑区有松町大字桶狭間字高根。桶狭間の戦いで今川軍の松井宗信が千名で守備した。善照寺砦などが一望できる。織田軍の佐々政次ら別働隊が攻めたが撃退された。この織田軍の攻撃は信長が義元本陣に近づくための陽動だったといわれる。
感想:周辺に丘が無いので、周りが良く見渡せたと思われる。

(高根山に建つ有松神社)

2.釜ヶ谷・・・豊明市栄町。織田信長本隊が義元本陣への攻撃の機会を窺った場所。雨が上がると同時に義元本陣に突撃している。
感想:現在は学校の敷地内になっているようだ。

3.七ツ塚・・・名古屋市緑区桶狭間北2丁目。桶狭間の戦いに勝利した織田信長は戦死者を村人に命じて葬らせた。埋めた遺体の上に立てたのが七ツ塚である。
感想:個人宅の裏(?)にひっそりとあった。その名の通り、七つあったようであるが宅地開発などで、ここ一ヶ所になってしまったそうだ。この塚も1989年の区画整理で移転されている。

4.桶狭間古戦場公園・・・名古屋市緑区桶狭間神明。今川義元最期の候補地の一つ。2010年に450周年を記念し、今川義元と織田信長の銅像及び清洲城・大高城・桶狭間などの全体図がジオラマで再現された。
感想:ここの銅像が(自分の中での)メインの一つだった。

(今川義元と織田信長の銅像)

(今川義元戦死之地の碑と、義元の供養塔)

5.戦評の松・・・名古屋市緑区桶狭間。今川義元の家臣・瀬名氏俊が軍議を開いたといわれる。当時の松は倒れてしまい現在は三代目が立っている。
感想:「初代の松の切り株がとても350年前のように見えない(1959年に倒れている)」との意見が。実物を見ると誰でもそう感じると思う・・・。

(義元公戦評之松の碑。ただし上記の説明通り、義元が戦評した訳ではない)

6.桶狭間神明社・・・桶狭間の村は1340年代、南朝の落武者によって開拓されたと伝わっている。神明社は村の心の拠り所として創建された。桶狭間の戦いで瀬名氏俊が戦勝祈願をしている。

7.長福寺・・・名古屋市緑区有松町桶狭間寺前14。1538年に創建された。桶狭間の戦いの際、住職は今川軍が来ると酒食を提供し、その労をねぎらったという。今川義元・松井宗信の木像が安置されている。
感想:本堂で桶狭間のことを歌ったミニライブがあった(歌われたのは桶狭間古戦場保存会の方だったのかな?)。本堂は音響効果が良いなあ・・・。
 今回、特別に木像を見せていただいた。

(境内にある今川義元公首実検の跡)

8.瀬名陣所跡・・・名古屋市緑区桶狭間。瀬名氏俊の陣所跡。

9.おけはざま山・・・名古屋市緑区桶狭間。今川義元本陣のあった山。現在も小高い丘になっている。
感想:碑は頂上よりかなり下の住宅街の中に建っていた。本当はもっと上らしいのだが、大人の事情でここになったらしい。

 ここで緑区は終了。豊明市の桶狭間に向かった。思っていたよりもすぐに着いた。この距離ならどっちが古戦場か揉めるはずだ。

10.高徳院・・・愛知県豊明市栄町南舘3-2。今川義元本陣跡と伝わっている。墓地の横にこの地で戦死した松井宗信の墓がある。
感想:過去に二度も行っているのに、お墓に気がつかなかった・・・。

(松井宗信の墓)

11.桶狭間古戦場伝説地・・・愛知県豊明市栄町南舘。今川義元の墓などがある。
感想:何度も来ているので特にない。


 ここで解散。
本日の感想:詳しい方の説明を聞きながら徒歩で廻ったため、古戦場の様子が実に良く分かった。非常に有意義な一日だった。来年はこういったイベントに積極的に参加しよう。

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歴史を翻弄した黒偉人

 彩図社から11月26日に発売された「歴史を翻弄した黒偉人」の織田信長の項に、私の提供した写真が掲載されております。
 お時間がありましたらご覧ください。
 有料で史跡写真の提供を行なっておりますので、ブログ・サイトに掲載してある写真で必要なものがございましたら、メールフォームからご連絡下さい。

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埼玉県史跡巡り2010(4日目:鉢形城、太田道灌・北条氏邦・藤田康邦の墓、深谷城)

 2010年11月23日(火)、朝の9時に東松山市のホテルを出る。21日に多めに史跡を廻っておいたおかげで、雨が止むまでゆっくりできた。

41.山吹の里歴史公園・・・入間郡越生町西和田24-3。太田道灌が鷹狩りに行った際、にわか雨にあい近くの農家で蓑を求めた。しかし農家の少女は黙って山吹を差しだした。その場では理解出来なかった道灌だが、のちに家臣から「七重八重(ななえやえ) 花は咲けども 山吹の 実の(蓑)一つだに なきぞ悲しき」という古歌にかけて詫びたという意味だと聞かされ、自分の無学を恥じ学問に励んだという。この公園はその「山吹伝説」伝承地の一つである。
感想:駐車場が狭かった・・・。

(園内にある水車小屋)


42.龍穏寺・・・入間郡越生町龍ヶ谷452。平安時代に山岳仏教の聖地として開かれたといわれる。1398に足利義教の招きに応じて無極禅師が開山。兵火で建物が焼失したが、1472年に太田道真・道灌父子によって再建された。豊臣家・徳川家の保護を受ける。1913年に建物のほとんどが焼失した。
感想:修験の地だったため山の中にあるため、公共交通機関では行きづらい場所にあるが、一見の価値が有るので行ってみて欲しい。

(仁王門)

(経蔵)

(太田道灌の像)

(太田道灌の墓)

(道灌の父・太田道真の墓)


43.鉢形城・・・大里郡寄居町鉢形。1476年、山内上杉家の家臣・長尾景春が築城。のちに藤田康邦が城主となるが、河越夜戦で山内上杉家が敗北すると康邦は北条氏の軍門に下る。北条氏康の四男・氏邦が城主となると大改修を行なった。その後、北関東の拠点として上杉謙信や武田信玄の攻撃にも耐える。しかし小田原征伐で前田利家・真田昌幸ら3万5千もの大軍の攻撃を受け落城し廃城。現在は鉢形城公園となり整備されている。城内にある鉢形城歴史館では鉢形城の歴史を知ることが出来る。
感想:とにかく敷地が広い。じっくり見て廻ると1時間以上はかかる。整備されすぎていて同じ北条氏の城である伊豆山中城を思い出した・・・。このブログを検索したら越中安田城に行った時も同じことを言っていた。

(三の曲輪)

(左が秩父曲輪。右は二の丸)

(虎口。奥は諏訪神社)

(本丸跡の碑)

44.正龍寺・・・大里郡寄居町藤田101-1。藤田康邦の開基。

(参道)

(藤田康邦夫妻の墓。康邦の息子・信吉は関ヶ原の戦いのきっかけを作ったことで知られる)

(北条氏邦夫妻の墓。小田原征伐後、前田家に預けられていた氏邦は1597年に加賀で没する)

(藤田氏の家紋・上り藤と、北条氏の家紋・三つ鱗。本堂の屋根にあった)


45.天神山城・・・秩父郡長瀞町岩田。藤田氏が築城。康邦の代に北条氏邦を娘婿に迎えて隠居した。小田原征伐で鉢形城が豊臣軍の手に落ちると開城。その後、廃城となった。1970年に模擬天守が建てられたが現在は閉鎖されている。
感想:模擬天守までは車で行けたようだが、現在は道が私有地となっており不可能。麓の白鳥神社から登るしかない。模擬天守は残っているが周辺は荒れ果て、天守の周りの土が削れているため危険な状態。

(模擬天守)

(模擬天守内部。廃墟になっている・・・。当然、中には入らなかった)


46.深谷城・・・深谷市本住町17。1456年、深谷上杉氏が古河公方に備えて築城。その後、深谷上杉氏の居城となったが、北条氏の圧力に耐えきれず1572年に屈服した。小田原征伐では深谷上杉氏の家臣・秋元長朝が守備したが、小田原城が落ちたため開城している。徳川家康の関東移封後、松平康直・松平忠輝・酒井忠勝が城主になるが、1634年に廃城となる。現在は深谷城址公園となっており遺構はない。

(深谷城址公園)


47.雉岡城・・・本庄市児玉町八幡山388。1460年頃、山内上杉氏の居城として築かれたが、手狭だったことから上野平井城に移っている。雉岡城は家臣の夏目氏が守備したが、北条氏の攻撃を受けて落城し鉢形城の支城となった。小田原征伐で落城。その後、徳川家康の家臣が入るが1601年に廃城となる。現在、城山公園となっており桜の名所になっている。空堀・濠・土塁などが残る。

(城址碑)

夜なき石

(園内の塙保己一記念館にある保己一の像。全盲でありながら『群書類従』を編纂した偉人)


 これにて埼玉県巡りは終了。長野県を通って何度も休憩しながらのんびり帰った。
今回の感想:関東の中でもっとも地理と歴史が分からない県だったので、この四日大変勉強になった。これで北条氏や上杉氏などの本を読んでも前よりは理解できるだろう。

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