埼玉県史跡巡り2010(4日目:鉢形城、太田道灌・北条氏邦・藤田康邦の墓、深谷城)

 2010年11月23日(火)、朝の9時に東松山市のホテルを出る。21日に多めに史跡を廻っておいたおかげで、雨が止むまでゆっくりできた。

41.山吹の里歴史公園・・・入間郡越生町西和田24-3。太田道灌が鷹狩りに行った際、にわか雨にあい近くの農家で蓑を求めた。しかし農家の少女は黙って山吹を差しだした。その場では理解出来なかった道灌だが、のちに家臣から「七重八重(ななえやえ) 花は咲けども 山吹の 実の(蓑)一つだに なきぞ悲しき」という古歌にかけて詫びたという意味だと聞かされ、自分の無学を恥じ学問に励んだという。この公園はその「山吹伝説」伝承地の一つである。
感想:駐車場が狭かった・・・。

(園内にある水車小屋)


42.龍穏寺・・・入間郡越生町龍ヶ谷452。平安時代に山岳仏教の聖地として開かれたといわれる。1398に足利義教の招きに応じて無極禅師が開山。兵火で建物が焼失したが、1472年に太田道真・道灌父子によって再建された。豊臣家・徳川家の保護を受ける。1913年に建物のほとんどが焼失した。
感想:修験の地だったため山の中にあるため、公共交通機関では行きづらい場所にあるが、一見の価値が有るので行ってみて欲しい。

(仁王門)

(経蔵)

(太田道灌の像)

(太田道灌の墓)

(道灌の父・太田道真の墓)


43.鉢形城・・・大里郡寄居町鉢形。1476年、山内上杉家の家臣・長尾景春が築城。のちに藤田康邦が城主となるが、河越夜戦で山内上杉家が敗北すると康邦は北条氏の軍門に下る。北条氏康の四男・氏邦が城主となると大改修を行なった。その後、北関東の拠点として上杉謙信や武田信玄の攻撃にも耐える。しかし小田原征伐で前田利家・真田昌幸ら3万5千もの大軍の攻撃を受け落城し廃城。現在は鉢形城公園となり整備されている。城内にある鉢形城歴史館では鉢形城の歴史を知ることが出来る。
感想:とにかく敷地が広い。じっくり見て廻ると1時間以上はかかる。整備されすぎていて同じ北条氏の城である伊豆山中城を思い出した・・・。このブログを検索したら越中安田城に行った時も同じことを言っていた。

(三の曲輪)

(左が秩父曲輪。右は二の丸)

(虎口。奥は諏訪神社)

(本丸跡の碑)

44.正龍寺・・・大里郡寄居町藤田101-1。藤田康邦の開基。

(参道)

(藤田康邦夫妻の墓。康邦の息子・信吉は関ヶ原の戦いのきっかけを作ったことで知られる)

(北条氏邦夫妻の墓。小田原征伐後、前田家に預けられていた氏邦は1597年に加賀で没する)

(藤田氏の家紋・上り藤と、北条氏の家紋・三つ鱗。本堂の屋根にあった)


45.天神山城・・・秩父郡長瀞町岩田。藤田氏が築城。康邦の代に北条氏邦を娘婿に迎えて隠居した。小田原征伐で鉢形城が豊臣軍の手に落ちると開城。その後、廃城となった。1970年に模擬天守が建てられたが現在は閉鎖されている。
感想:模擬天守までは車で行けたようだが、現在は道が私有地となっており不可能。麓の白鳥神社から登るしかない。模擬天守は残っているが周辺は荒れ果て、天守の周りの土が削れているため危険な状態。

(模擬天守)

(模擬天守内部。廃墟になっている・・・。当然、中には入らなかった)


46.深谷城・・・深谷市本住町17。1456年、深谷上杉氏が古河公方に備えて築城。その後、深谷上杉氏の居城となったが、北条氏の圧力に耐えきれず1572年に屈服した。小田原征伐では深谷上杉氏の家臣・秋元長朝が守備したが、小田原城が落ちたため開城している。徳川家康の関東移封後、松平康直・松平忠輝・酒井忠勝が城主になるが、1634年に廃城となる。現在は深谷城址公園となっており遺構はない。

(深谷城址公園)


47.雉岡城・・・本庄市児玉町八幡山388。1460年頃、山内上杉氏の居城として築かれたが、手狭だったことから上野平井城に移っている。雉岡城は家臣の夏目氏が守備したが、北条氏の攻撃を受けて落城し鉢形城の支城となった。小田原征伐で落城。その後、徳川家康の家臣が入るが1601年に廃城となる。現在、城山公園となっており桜の名所になっている。空堀・濠・土塁などが残る。

(城址碑)

夜なき石

(園内の塙保己一記念館にある保己一の像。全盲でありながら『群書類従』を編纂した偉人)


 これにて埼玉県巡りは終了。長野県を通って何度も休憩しながらのんびり帰った。
今回の感想:関東の中でもっとも地理と歴史が分からない県だったので、この四日大変勉強になった。これで北条氏や上杉氏などの本を読んでも前よりは理解できるだろう。

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埼玉県史跡巡り2010(3日目後半:石戸城・武蔵松山城・加賀爪忠澄の墓)

37.石戸城・・・北本市石戸宿6-57。1460年頃、太田道灌に築かれたといわれている(扇谷上杉氏の家臣・藤田氏とも)。岩槻城と武蔵松山城を結ぶ要所で何度も戦いの舞台となった。1562年、北条氏邦が攻めた際、一夜にして土橋を築いて勝利したといわれ、現在そこは「一夜堤」と呼ばれている。城は現在、北本自然観察公園になっている。
感想:城址碑などはなかった。

(一夜堤・・・だと思う)


38.武蔵松山城・・・比企郡吉見町南吉見327。築城年代は不明。新田義貞が鎌倉を攻略する際に陣地を築いたといわれたとも、1399年に扇谷上杉氏の家臣・上田友直に築城したともいわれる。交通の要所にある城で、扇谷上杉氏・北条氏・武田信玄・上杉謙信らによる争奪戦の舞台となった。戦国時代末期には上田氏が城主となるが、小田原征伐で前田利家らによって落とされる。その後も利用されたが1601年に廃城。堀・土塁などが良好に残る。
感想:北側から登ったが雨と落ち葉で滑りそうになった。

(松山城址碑)

(兵糧倉庫)

(本丸跡)

(城の麓にある弘法大師所縁の岩室観音堂)


39.上田朝直建立の青石塔婆・・・東松山市神明町1-12。武蔵松山城主・上田朝直が部下の冥福を祈って法華経千回を唱えたのを記念して1571年に建てた。
感想:詳しい場所が分からず近所の方に聞いて案内してもらった。青石塔婆の左隣に加藤清正を祀る祠(?)があった。近所の方もなぜ清正公が祀ってあるのか分からないと言われていたが、愛知に戻った後に詳しい方から「清正公は日蓮宗系のお寺で武の神として祀られている」と聞いた。そういうことか・・・。

(青石塔婆。近年、保護のため小屋が建てられた)

(清正公を祀る祠。近くの日蓮宗系の寺の方が定期的に清掃されているらしい)


40.高済寺・・・東松山市高坂834。徳川家に仕えた加賀爪氏の菩提寺。政尚は長久手の戦いで、忠澄は関ヶ原の戦い・大坂の陣で功があった。忠澄は長崎でキリシタン船を焼いてキリシタンを処刑したことで知られる。
(右が加賀爪政尚・中央が忠澄の墓)


 日が暮れてきたため、史跡巡りはここで終了。ホテルに向かった。
本日の感想:思っていたよりも雨が早く止んで助かった。埼玉県は徳川家の家臣関係の史跡が多いな・・・。

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埼玉県史跡巡り2010(3日目中編:羽生城・伊奈忠次の墓・成田氏の墓・石田堤)

33.皿尾城・・・行田市皿尾。上杉謙信が忍城攻めに築いた城。欅(けやき)の木に罪人が全裸にされて蚊攻めの刑で処された。その欅の枝を折ると悪いことが起こるといわれている。
感想:蚊攻めの刑がいつ行われたのかは不明。近所のご老人に聞いたが、この話をご存じなかった。そもそも該当の欅がどれなのか分からなかった。

(皿尾城跡の碑)


34.丸墓山古墳・・・行田市大字埼玉。忍城攻めの際に石田三成が陣を構えたといわれる。

35.石田堤・・・行田市堤根。忍城水攻めの際に三成の指揮で築かれた堤。ほとんどの堤が失われたが、ここ堤根に250メートルの遺構がある。近くには堤の一部を復元した「石田堤史跡公園」もある。
感想:公園の間に走っている上越新幹線の高架下に立つと、センサーが反応して忍城水攻めについての説明が流れるようになっていた。知らなくて、かなりびびった・・・。

(石田堤)

(高架下)


36.勝願寺・・・鴻巣市本町8-2-31。関東十八檀林(室町末期におこった、僧徒の学問修養の道場)の一つ。徳川家康が鴻巣に鷹狩りに訪れた際、訪問している。信濃への帰路に当地で亡くなった小松姫と仙石秀久、真田信之の三男で小松姫の息子・信重とその妻の墓がある。また関東の治水・検地などで活躍した伊奈忠次・忠治の墓もある。

(仁王門)

(左から仙石秀久・信重の妻・真田信重・小松姫の墓)

(伊奈忠次・忠治らの伊奈家の墓。どれが二人のものかは分からなかった)


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