本多政重

(ほんだまさしげ)

生没年:1580〜1647年/ 身分:前田家の家臣/ 官位(通称、号):大和

宇喜多秀家の陣
関ヶ原での宇喜多秀家の陣

【本多家の次男】本多正信の次男。本多正純の弟。1591年に徳川家の家臣・倉橋長右衛門の養子となり、1593年から徳川家康に仕えた。1597年に徳川秀忠の乳母の子・岡部荘八を斬ったため伊勢山田に逐電し、正木左兵衛と名を変える。
 しばらくして大谷吉継の家臣となり京都へ移った。しかし1599年に宇喜多秀家の家臣となり2万石を与えられる。関ヶ原の戦いでは、明石全登と共に宇喜多軍を指揮し奮戦したが、西軍が敗戦したため近江堅田に隠棲した。

金剛峯寺
政重が逃れた高野山にある金剛峯寺

【前田家の重臣に】それを知った前田利長と小早川秀秋が同時に家臣にしようと言ってきたためどっちにも決められない政重は困り果て高野山に逃れる。その後、福島正則に仕え3万石を与えられたが、1602年からは前田利長に仕え、同じ3万石で家臣となった。
 しかし1604年に前田家を辞して今度は上杉家に仕える。そこで重臣・直江兼続の娘と結婚し養子となり、名前も直江勝吉と変えた。だが妻が亡くなったため上杉家を去り前田家に戻り再び3万石を与えられた。

本多政重の墓
石川県金沢市長坂町ル10の大乗寺にある政重の墓

【前田家を救う】1613年に利長が徳川家の疑惑から逃れるため隠居地を差し出そうとすると、政重は主家のために7度も江戸と金沢を往復して徳川親子と身内の本多親子に釈明し、120万石を守っている。その功で1614年6月には2万石を加増され前田家の家臣団中最高の5万石という禄高となった。
 大坂の陣に従軍したが真田幸村の挑発に乗り、全軍を真田丸の攻防に巻き込み大損害の原因を作ってしまう。しかしそれでも政重の地位は揺らぐことなく、それ以降も前田家の国家老として政治を執り補佐した。1647年3月に隠居し大夢と号し、6月3日に死亡した。

管理人・・・気の短さで何度も主君を変えたにも関わらず、すぐ他の大名に招かれているということは、親父さんの威光もあったでしょうが本人の実力もかなりのものだったのでしょう。

参考文献三百藩家臣人名事典戦国武心伝戦国人名事典 コンパクト版、ほか

UPDATE 2002年4月30日
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