明石全登

(あかしたけのり)

生没年:不詳/ 身分:大坂城五人衆/ 官位(通称、号):掃部頭

宇喜多秀家の陣
関ヶ原の戦いでの宇喜多秀家の陣

【十字架の旗】全登は、「たけのり」・「てるずみ」・「ぜんとう」などと読む。全登は備前の大名・宇喜多秀家の親族で、家臣として4万石(10万石とも)を領していた。全登は非常に熱心なキリスト教信者だった(洗礼名はヨハネ、ジョアン、ジョアニーなどこれもまた色々な説がある)。
 1600年9月15日の関ヶ原の戦いでは宇喜多軍1万5千のうち、8千という半分以上の軍を率いて、敵の猛将・福島正則と激戦を繰り広げる。

【潜伏】だが西軍が敗北したため親族の黒田長政を頼って筑前に落ち延びた。そしてしばらくそこで過ごしていたが、いつまでも黒田家に迷惑はかけられないと考えたのか、全登はある日、筑前を離れて別の土地へと旅立つ。それから備中などに潜み世間に出る機会を待った。

【自由を勝ち取るために】大坂の陣の直前、1614年10月に突如、全登は大坂城に現れる。迫害されていたキリスト教の信仰の自由と、八丈島に流されていた旧主・宇喜多秀家を解放するためであった。

伝・明石全登の墓
香美市香北町白石にある伝・明石全登の墓

【聖戦】冬の陣では、木津川口の戦いに関わった程度の活躍しかなかったが(しかもその戦いには全登自身は会議で参加していなかった)、夏の陣では重要な役を担うことになる。
 1615年5月7日、天王寺・岡山での最終決戦真田幸村は家康の首を取る秘策を提案する。それは主力が敵の注意を引きつけておいて、その間に明石隊300が敵を迂回して背後に回り、混乱しているところで首を取るというものだった。しかしその計画も豊臣秀頼の出馬中止などで水泡に帰し、明石隊はただの遊撃隊となってしまった。それを知らずに船場で時を待っていた全登であったが、そのことを知ると明石隊だけで家康の首を取ろうと徳川軍に突撃する。だが、敵が四方八方から現れ、もはや家康を探すどころではなくなってしまった。
 その後の全登の動向は不明である。討ち取られたとも、九州か外国に逃げたとも言われている。この後、徳川家が全登を恐れて『明石狩り』を行ったことはあまりにも有名である。

管理人・・・夏の陣で水野忠成の家臣が全登の首を取って家康の本陣に持っていってますが、それが本当にそうなのか判別出来ずうやむやになっています。真実はどうだったんでしょうか・・・。

参考文献戦国人名事典 コンパクト版大坂の陣―錦城攻防史上最大の軍略ほか

UPDATE 1999年9月20日
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