肥前 神代城(鶴亀城。神代氏の居城)

●肥前 神代(こうじろ)城(鶴亀城)
住所:長崎県雲仙市国見町神代(字 城上)
駐車場:雲仙市神代小路伝統的建造物群保存地区の駐車場を利用
遺構:曲輪、土塁、櫓台跡、虎口、空堀
標高:21メートル/比高:16メートル

 当時は南以外は海に囲まれ有明海に突き出していた。海に向かって逆三角形の形をした台地に築かれており、本丸の南側と二の丸などがある北側は空堀で区切られている。別名の鶴亀城は、空に鶴が舞って城下の海には亀が泳いでいたからだという伝承がある。
 武内宿禰の子孫という伝承のある筑後(福岡県南西部)の神代氏が、文治元(1185)年に神代村(当地)に移り、元寇での戦いや足利尊氏の元で戦功を挙げたという。築城年代は不明だが南朝についた神代貴益が居城にしていたと伝わる。南北朝時代には神代の地名が何度か出てくる。
 天正5(1577)年12月、龍造寺隆信の軍勢が有明海を渡海し神代に上陸した際、神代貴茂は降伏して隆信のために奔走したと伝わる(『北肥戦誌』)。天正8(1580)年、龍造寺軍の肥後や豊前の進軍に際して従軍したという。
 天正12(1584)年の沖田畷の戦いでは龍造寺隆信は神代地区に本陣を置いたが、隆信が討たれ敗れる。だが、神代氏は神代城に籠もって抵抗した。周囲が海に囲まれており堅城だったことから、攻め手の有馬晴信は和議を結ぶと偽り多比良城に呼び出して、帰り道で神代氏を謀殺して城を落としたという逸話がある。実際は天正12(1584)年3月24日に隆信が討たれた後も神代氏は抵抗したが同年4月4日頃には降伏し城を出て、有馬晴信に与えられることになったものの神代氏はゲリラ戦を行っていたようである。
 天正15(1587)年の豊臣秀吉の九州攻めで神代は鍋島直茂に与えられ、以降は佐賀藩の飛び地となった。

(雲仙市神代小路伝統的建造物群保存地区。近世になってからの神代鍋島家が整備した町並みがある。国指定重要文化財の鍋島邸にも入りたかったが休館日だった)
雲仙市神代小路伝統的建造物群保存地区

雲仙市神代小路伝統的建造物群保存地区

雲仙市神代小路伝統的建造物群保存地区

(南北を隔てる空堀跡。場所は下にスクロールするとある縄張図を参照)
空堀跡

(南側の入口。本丸と館跡があったらしい。城跡には寛永元(1748)年に建立された道政稲荷神社と、元禄年間(1688~1704年)に創建された神代神社があり、その参道の入口のため鳥居がある。鳥居が並んでいるところは虎口になっている)
南側の入口

南側の入口

南側の入口

(道政稲荷神社。本丸の北側の土塁があるのが良く分かる)
道政稲荷神社

道政稲荷神社

道政稲荷神社

(本丸の中心にある神代神社)
神代神社

神代神社

(神代神社の東側にある土塁と虎口)
東側にある土塁と虎口

東側にある土塁と虎口

東側にある土塁と虎口

東側にある土塁と虎口

東側にある土塁と虎口

東側にある土塁と虎口

(神代神社の南側(後ろ)。一段高くなっており、ここに高さ25メートルの天守があったそうだ)
南側(後ろ)

南側(後ろ)

南側(後ろ)

南側(後ろ)

(本丸の北東)
北東

北東

(本丸を降りて北側の曲輪に行く。ここは私有地で一部が畑になっているため、さっと見て帰った)
北側の曲輪

北側の曲輪

北側の曲輪

北側の曲輪

参考文献:長崎県の地名、日本城郭大系 第17巻、長崎県中近世城館跡分布調査報告書2、九州の名城を歩く 佐賀・長崎編、現地の案内板、角川日本地名大辞典42 長崎県

感想:雲仙市神代小路伝統的建造物群保存地区の駐車場が分からず、間違ってKMD工業さんの駐車場に入ってしまい、正しい駐車場を教えてもらいました。
 少弐氏の家臣で龍造寺氏と戦った神代勝利とは別系統の家です。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


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