伯耆岸本要害(播磨別所氏の城?)

●伯耆岸本要害
住所:鳥取県西伯郡伯耆町岸本

 播磨別所氏の一族が築城したと伝わるが真偽は不明。

(城址碑)
城址碑

(要害と南側との谷間。かなり深い)
谷間

(曲輪(1)の南の土塁)
曲輪(1)

曲輪(1)

曲輪(1)

曲輪(1)

(Aの虎口と土橋)
虎口と土橋

虎口と土橋

(Aの東西にある堀)
堀

(曲輪(2)と(3))
曲輪(2)と(3)

曲輪(2)と(3)

曲輪(2)と(3)

(北側の台地との間には谷があり川が流れている。ちなみに北側の台地の字名が蛇ヶ谷なので、ここが蛇ヶ谷なのだろう)
蛇ヶ谷

蛇ヶ谷

(曲輪(1)の中心部。藪になっていてほとんど分からない)
曲輪(1)の中心部

(曲輪(1)の西)
曲輪(1)の西

曲輪(1)の西

曲輪(1)の西

(曲輪(1)の西にある窪んだ箇所。西も崖になっているが南北よりは緩い)
窪んだ箇所

(別所長治を祀る祠)
別所長治を祀る祠

(城域の東側。こちらが城を攻撃する際の侵入経路で(2)(3)の曲輪に出るが、現在は冬以外は藪が酷くて入れない。写真は3月だが、この時でギリギリ入れるという状態だった)
城域の東側

感想:歴史についての詳しいことは『山陰の戦国史跡を歩く 鳥取編』を参考にしてください。

(縄張図)
縄張図



賀茂神社(名和長年ゆかりの神社)

●賀茂神社
住所:鳥取県西伯郡大山町加茂477
駐車場:なし

 祭神は別雷尊、稚日女尊、素戔嗚尊、玉依姫尊。以前は加茂大明神と称していた。創建年代は不明だが、元弘年間(1331~1334年)、名和氏の産土神(生まれた土地の守護神。近世以降は氏神と混同)で名和長年が船上山の戦いの直前、戦勝祈願のため剣二振と祈願書を納めたと伝わる。元和4(1618)年に再興され、当時は加茂郷二十二村の氏神だった。明治元(1868)年、糺大明紳を合祀し、大正元(1912)年に古林神社と東谷神社を合祀している。

(一の鳥居)
一の鳥居

(二の鳥居と随神門)
二の鳥居と随神門

(狛犬と以前の鳥居の名残)
狛犬と以前の鳥居の名残

(拝殿、幣殿、本殿)
拝殿、幣殿、本殿

(社殿と神木)
社殿と神木

社殿と神木

(おまけ。同地区にあったウシオの看板。現在も貸衣装を生業としているらしい)
ウシオの看板

参考文献:鳥取県の地名、名和町誌、鳥取県神社誌

感想:東谷神社のあった場所の字が天皇だったので由来が気になっています。東谷地区は分かりましたが、字天皇の場所が不明でした。東谷地区に神ノ前という字が残っているので、その辺りに東谷神社があり以前は天皇という字名だったのかもしれませんが詳しいことは分かりません。
 名和長年が納めた剣二振と祈願書が『鳥取県神社誌』には現存するとありましたが、現在もあるか不明です。



伯耆天守山城(下市城、吉川元春の家臣・森脇若狭守の城)

●伯耆天守山城(下市城)
住所:鳥取県西伯郡大山町下市(字 要害峰)
駐車場:なし
遺構:曲輪、土塁、堀切、土橋
標高:70メートル/比高:25メートル

 別名は「てんもりやま(天森山?)城」とも。東に流れる下市川が天然の濠の役割を果たしていた。築城年代は不明。当地の所属する汗入郡と隣郡の八橋郡との境に近い場所にあった。天正元(1573)年、吉川元春が伯耆侵攻の際に家臣の森脇若狭守(越後守と同一人物とも)を置く。やがて元春の息子・吉川広家が西伯耆三郡を支配すると、若狭守は当地の支配にあたった。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで吉川氏が伯耆を去ると若狭守も従い廃城になったという。

(遠景。右手奥が天守山城)
遠景

(主郭の南側。こちらも遺構らしい)
南側

(分かりづらいが主郭に続く土橋)
土橋

(土塁の左右にある堀切)
堀切

(主郭。土塁で囲われている。かつては梨畑だったそうな)
主郭

主郭

主郭

主郭

主郭

参考文献:鳥取県の地名、鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)、新修 中山町誌 下巻

感想:聞いた話だと堀切は最近、産業廃棄物置き場になっているとか・・・。
 鳥取県の地名には振り仮名が「てんしやま」となっていたが誤字なのか正しいのか不明でした。

(縄張図)
縄張図