大鳥居神社(倉吉市関金町の氏神)

●大鳥居神社(倉吉市関金町)
住所:鳥取県倉吉市関金町大鳥居321(字 市場)
駐車場:なし

 祭神は天御中主神。創建年代は不明である。下八王寺の宮とも日吉神社の摂社とも伝わる。そのため下八王社と称していたという。
 寛政10(1798)年頃、河村郡と久米郡の人々が当社の鳥居から大山を遙拝し参拝に変えたと伝わる。この頃、洪水のため現在地から同地区の玉仙塚(鴨川中学校の北西)に移転。その後、仙隠峯(鳥取県立農業大学校の西側)に移転され、大正8(1919)年に現在地に戻った。大正年間には当地区を含む南谷村の神社を合併し南谷神社にする計画があったが、地区の住民は反対し社殿を整備して対象から外れるよう努力し回避に成功している。
 明治初年に現在の社号に改名。昭和9(1934)年の水害によって神楽殿や石鳥居など社殿以外が流されてしまう。10月7日に御幸祭礼が催されている。

(鳥居)
鳥居

(狛犬)
狛犬

(拝殿)
拝殿

(本殿)
本殿

本殿

(荒神社)
荒神社

(古路離(ころり)大明神。安政6(1859)年、コレラ(コロリ)が流行したため退散のため勧請した)
古路離大明神

(全景)
全景

参考文献:鳥取県の地名、関金町誌 第2集、関金町誌 第4集

感想:この神社があるから大鳥居という地名かと思っていたら、大神山神社奥宮(大山町)の東の鳥居を当地に建て一の大鳥居と称されたことから大鳥居村と呼ばれるようになったそうです。



巨嶽山正福寺(水木しげるの原点、尼子再興戦で焼失した寺)

●巨嶽山正福寺
住所:鳥取県境港市中野町5016
駐車場:あり

 曹洞宗。創建年代は不明だが正八幡宮と餘子神社(両社とも現在は大港神社)の別当寺で真言宗の代台寺という名だった。天文年間(1532~55年)に洪水で流されてしまったため吉祥寺として再建されたが、元亀年間(1570~73年)に毛利軍と尼子再興軍の兵火で焼失してしまう。
 その後、草庵を結んで細々と存続していたが、貞享年間(1686~88年)に上道村(境港市上道町)の僧・元達が現在地に移して再建し曹洞宗に改宗し米子市の総泉寺の末寺となった。越前にある曹洞宗の大本山・永平寺より寛保元(1741)年に移植したと伝わる榧(かや)の木が本堂の南にあり市天然記念物だったが、平成3(1991)年の台風で倒木してしまう。
 市指定文化財の地獄極楽絵図は死者が地獄の王によって裁かれていく様子などが描かれており、これを見た水木しげるは別の世界を知って妖怪の世界に導かれたという。他にも寺宝として地引網絵馬がある。
 境内には『伯耆志』の著者・景山粛の墓や地元の俳人・一仙堂蘭石の芭蕉句碑などがある。

(山門)
山門

(地蔵群)
地蔵群

(平成14(2002)年に設置された水木しげる記念碑)
水木しげる記念碑

(鐘楼門)
鐘楼門

(本堂)
本堂

参考文献:鳥取県文化観光事典、鳥取県の地名、正福寺公式サイト

感想:境港市が主催したツアーで参拝しました。



中山道好(道光)の墓(羽柴秀吉の摩尼寺焼き討ちに抵抗した僧)

●中山道好(道光)の墓
住所:鳥取県鳥取市覚寺
駐車場:摩尼寺参拝用の駐車場を利用

 道好(道光)は医師だったが出家して摩尼寺に入った僧だった。天正9(1581)年6月、羽柴秀吉が鳥取城を攻めるため周囲の寺社を焼き払ったが摩尼寺は残し、道好を本陣に呼んでもてなすなどした。しかし帰る際、摩尼寺が燃えているのを見て怒り大木の松を引き抜いて焼いたと思われる反対側から来た秀吉軍の兵を打ち倒す。そして岩窟を掘って、その中で亡くなったという。
 安政5(1858)年、地元の住民がその岩窟から両手を組んで仰向けになった白骨死体を見つけ不動明王の供養塔を建てた。
 道好にはもう一つ逸話がある。鳥取市百谷に続く百谷越で何人かの修行僧が大蛇に襲われるということがあった。そこで道好は藁人形を作って竹胴の中にモグサを詰めて火をつけ袈裟を被せて僧に見えるようにして運ぶ。大蛇は僧と見間違え呑み込んだが、腹の中で藁人形が燃えさかり苦しんでいるところを道好が斬り捨てた。だが、尾だけが飛んで百谷の姫ヶ谷(姫木谷)で暴れ回ったため、住民は鳥取市田島に引っ越しを余儀なくされたという。

(道好の墓を参拝するには摩尼寺への石段を登らず道沿いに歩いて山道に入る)

(途中で左手に登る道があるので、そこを上がると辿り着く)
登る道

(道好の墓(供養塔)。後ろに見えるのが岩窟で、思っていたより狭く人が一人入れる程度だった)
道好の墓

道好の墓

感想:場所が分からず近所の方に尋ねたら、教えていただいた後に「昔は参拝客が多かったが今は見ないねえ」と仰っていました。これだけの逸話があるので何か御利益があるという伝承でもあったのでしょうか。詳しく調べていないので不明です。