令和8年正月の月山富田城(正月山)

 今年は2年ぶり、正月に尼子ファンや広瀬町民が行うという伝統行事・正月山(しょうがっさん)を私も行ってきた。これは正月に月山富田城に登って尼子再興を願う元和年間から続く伝統行事で、正月が悪天候であればあるほど登頂の七難八苦に比例して再興が近づくと言われる。出典はない。今年で4度目。
 今回の参加人数は最高の4人! 拙いが動画を編集したので載せておく。

(正月山の様子)

(その後に起こった令和8年の島根県東部地震の被害状況を確認しに行った際の様子)

 正月の朝から軽い運動をすると気持ちが引き締まる感じがするので来年も予定がなければやるつもり。



第一回 尼子再興の旅 総括(尼子充勇士の会)

実施日:2025年10月4日(土)
探訪先:月山富田城/長台寺/雲樹寺/清水寺/川中島一騎打ち跡/品川大膳墓所/洞光寺/三日月公園

 まずは第一回尼子再興の旅へご参加いただいた方々へ感謝を!
 今回のイベントは朝から天気が優れず足元が悪い中での開始でした。
 全員が山城登山には慣れているとはいえ、午前中の「月山富田城」では予想以上の大雨で立ち往生する事態も発生し…。
 しかしながら、雲に隠れる月山富田城を見ることが出来たことはある意味で貴重な体験だったと思います。

月山富田城

 午後からは長台寺城へ登る予定でしたが、天候が回復せず長台寺への参拝で終え、そのまま急遽「雲樹寺」へ。
 久しぶりに雲樹寺を参拝させていただきましたが、相変わらず厳かな雰囲気でした。

雲樹寺

 更に「尼子氏縁者の墓」なるものがあり、果たしてこれは何なのだろうと、皆さんと話をしていました(どなたか詳しい方がおられたら是非教えて下さい)。
 ちなみに、雲樹寺の付近には岩崎姓の方も多くおられますので、その関係でもあるのかもしれませんね…?

子氏縁者の墓

 その後清水寺を参拝しました。この頃になると雨も小康状態となり、水の流れる音を聞きながら参拝させていただきました。
 いつもは多い参拝客もさすがにこの日は少なく、落ち着いた中で見て回ることが出来ました。
 清水寺といえば前回の「尼子語り」の中でも触れられていましたが、鰐淵寺との間で繰り広げられた「左座論争」が有名ですね。これは尼子氏と地元宗教勢力とのパワーバランスを知ることができる貴重な出来事だと思います。
 あとは道中で話題にも出ましたが、天気が良ければ「鹿介の槍砥石」も見に行きたかったのですが、そこは次回のお楽しみということで…。

清水寺

 清水寺を後にしたところで、(長台寺城に登らなかった分)かなり時間が余っていたので、広瀬町内に戻り、月山富田城周辺の尼子関連史跡を巡ることに。
 まずは第二次月山富田城の戦いの折に山中鹿介と品川大膳が一騎打ちを行った川中島一騎打ち跡へ。

一騎打ち

 そしてその一騎打ちで敗れた品川大膳の墓所を訪れました。
 どちらも草が生い茂ってはいたが、史跡自体は健在だったので、そこは安心しました(笑)

品川大膳の墓所

 そのまま歩いて洞光寺へ。ここは尼子氏の菩提寺で、尼子経久とその父である尼子清定のお墓があります。
 実は洞光寺を参拝するのは久しぶりでした。この時は境内が大量の銀杏で溢れており、その香りの中で季節を感じながらお墓参りをさせていただきました。

尼子父子の墓

 洞光寺を後にし、清酒月山でお馴染みの吉田酒造さんの酒蔵を見つつ、最後は三日月公園へ。経久公御本人(?)へ謁見しました。

経久

 終わってみれば当初の計画とは大きく違った尼子再興の旅となりましたが、結果的に私個人も満足できたイベントになったと思います。
 参加者の皆さんとの交流の中で、貴重な知識や情報を知ることが出来たのも大きかった!
 そう考えると、雨に降られたことも良い七難八苦だったと思います。
 皆さん本当にお疲れ様でした!
 最後になりましたが、昼食で利用させていただいた「中海の郷」様、道中の休憩で利用させていただいた「サムライの昼寝」様、懇親会で利用させていただいた「炉端かば」様にも感謝いたします。どこも美味しい料理で、是非また利用させていただきます!


水若酢神社(隠岐国一ノ宮)

●水若酢神社(みずわかすじんじゃ)
住所:島根県隠岐郡隠岐の島町郡723(字 犬町)
駐車場:あり

 隠岐国一ノ宮。通称は「いっく(一宮)さん」。主祭神は水若酢命(みずわかすのみこと)である。伝説によると、崇神天皇の時代、若酢命が海中から伊後村(現在の隠岐の島町伊後)の磯島に上陸し、白鳩を二羽従えて当地へ来訪。その後、土地の開発などを行い、住民は神社を創建してこれを崇め奉ったと伝えられている。水若酢命伝説については、「島外から移住して開発を進めた先祖を指す」「発見された水源に宿った神霊を象徴する」などの説がある。
 『続日本後紀』(貞観11(869)年、文徳天皇の命で成立)には、穏地郡水若酢命神の名が記されている。また、『延喜式』(醍醐天皇の命により延長5(927)年に完成)にも水若酢命神社の名が見られ、名神大社(社格の一つで、尊崇が厚く特別な待遇を受ける神社)とされた。
 12世紀前後、理由は不明だが隠岐国一ノ宮となる。戦国時代には、隠岐氏(およびその後援者である尼子氏)と対立した水若酢神社の大宮司(名は不明)が没落し、代わって代氏が大宮司となった。
 慶長4(1599)年には吉川氏から作分(小作地)70石、寄免分(村に定められた年貢や課税の割り当て)30石、社領10石が認められた。近世には松江藩によって何度も再建、修築が行われている。延宝4(1676)年には洪水により、一宮村(隠岐の島町郡 字「一宮」)から現在地へ移転したという。幕末には代氏から忌部氏に姓を変えた大宮司が尊皇攘夷に傾倒し、隠岐騒動の指導者の一人になっている。
 近世まで「一宮大明神」と称されたが、明治維新後に「水若酢神社」と改称。明治時代頃までは水若酢を「みわかす」と読んでいたようである。
 西暦の偶数年の5月3日に開催される「水若酢神社祭礼風流」は、県の無形民俗文化財に指定されている。

(一の鳥居)
一の鳥居

(中西毅男が開いた私塾の膺懲館跡。ここの学生が後の隠岐独立に傾注した)
膺懲館跡

(二の鳥居と土俵)
二の鳥居と土俵

(手水舎)
手水舎

手水舎

(神門)
神門

(社殿。本殿は国指定重要文化財で「隠岐造り」という神明造り、大社造り、春日造りを合わせた造りらしい)
社殿

社殿

(水若酢神社古墳群。6~7世紀頃の太刀や勾玉などが出てきた。伝承と重ね合わせると、移住してきた人の子孫が生活して神社の原型みたいなものも一宮村に建てていたのだろうか)
水若酢神社古墳群

(県指定有形文化財の旧周吉外三郡役所庁舎。水若酢神社に隣接している。明治18(1885)年、隠岐の四郡(周吉、穏地、知夫、海士)の四郡の庁舎で、現在は有料の資料館(隠岐郷土館)になっている)
旧周吉外三郡役所庁舎

旧周吉外三郡役所庁舎

旧周吉外三郡役所庁舎

旧周吉外三郡役所庁舎

参考文献:島根県の地名、西郷町誌 下巻、隠岐西郷町誌、神国島根、現地の案内板、しまね観光ナビ

感想:竹島関連のポスターなどが多かった記憶があります。