佐々布要害山城(佐々布氏の居城)

●佐々布要害山城
住所:島根県松江市宍道町佐々布(字 本郷、佐々布中)
駐車場:ふるさと森林公園の駐車場を利用
遺構:曲輪、土塁、掘切、枡形虎口
標高:126メートル/比高:90メートル

 中世の山陰道が眼下に通る場所に位置している。東と西にそれぞれ主郭があり通路で繋がっている。塩冶高貞が都から出雲に下った際、籠城しようとした城であるという伝承がある。
 出自が出雲国衙の在庁官人と考えられている佐々布氏の居城であり、鎌倉時代からこの地を支配し続けた。尼子氏が台頭するとその傘下に入り、毛利元就が出雲を支配するようになると、元就に従っていた宍道氏の配下となった。
 宍道氏の居城である金山要害山城と、支城の宍道要害山城との繋ぎの城としての性格を持っていたといわれている。

(ふるさと森林公園側から西郭群を目指す。場所は下の縄張図を参照)
ふるさと森林公園

(尾根の進むと土橋のような場所に出る)
土橋

土橋

土橋

(西の主郭の曲輪。土塁があった。陽の当たる箇所はご覧の通りの状況である)
西の主郭の曲輪

西の主郭の曲輪

西の主郭の曲輪

西の主郭の曲輪

西の主郭の曲輪

(東郭群)
東郭群

東郭群

東郭群

東郭群

参考文献:島根県の地名、出雲の山城

感想:家族連れが公園に行く中、山登りの格好をしていたので異様な者を見る目で見られました。
山陰の戦国史跡を歩く 島根編』から割愛した史跡です。

(縄張図。クリックすると新しいタブが開きます)
縄張図


掲載の縄張図について


諏訪神社(因屋城主の村上氏勧請の神社ヵ)

●諏訪神社
住所:島根県隠岐郡海士町海士1510(字 諏訪)
駐車場:不明

 主祭神は健御名方命。創建年代は不明だが、因屋城主で海賊でもあった隠岐村上氏が、武神である健御名方命を勧請したのではないかと推測されている。貞享5(1688)年5月、鉄砲三挺が寄進された。文化年間(1804~18年)、因屋城主の村上氏の後裔である村上助九郎が鏡三面の寄進を行っている。
 近世まで諏訪大明神と称していたが、明治維新後に諏訪神社と改称した。明治42(1909)年には、近隣の大山神社(大山祇命)と朝露神社(長津彦命)を合祀する。

(鳥居)
鳥居

(拝殿)
拝殿

(本殿。春日変態向錣屋根という造りらしい)
本殿

参考文献:海士町史、島根県神社庁

感想:自転車で通った時に参拝したので掲載してみました。
 村上助九郎が寄進した鏡三面ですが、参考文献には「鐘三面」となっていました。3つの面なので鏡と解釈して掲載しています。



瑞応山長厳寺(後醍醐天皇の后が開基ヵ)

●瑞応山長厳寺
住所:島根県雲南市三刀屋町伊萱469(字 割田)
駐車場:不明

 臨済宗。本尊は聖観音菩薩像で、行基の作と伝えられている。嘉暦年間(1326~1329年)、楠木刑部輔正清と名和長年が協力し、隠岐に流されていた後醍醐天皇を迎えるため、天皇の后を奉じて挙兵を計画したが失敗に終わり、60人余りが自害した。后は尼となり、亡くなった者たちの菩提を弔ったことが寺の始まりと伝えられている。
 応永24(1417)年、室町幕府将軍・足利義持が長護寺(長厳寺)を祈願寺とした。天文年間(1532~54年)、尼子氏と毛利氏の兵火により、本尊を除くすべての建物が焼失した。近世に入ると松江藩の庇護を受けて再興されたが、宝暦年間(1751~64年)の洪水で伽藍が流され、明治36(1903)年に再建された。
 寺宝として、后の遺品と伝えられる青磁茶碗が残されている。また、本尊の聖観音菩薩像も后の持仏とされている。寺の南方には「醍醐塚」と呼ばれる来待石製の五輪塔が立ち、「雲陽誌」にはこれを天皇の御廟と記しているが、自害した60人余の墓の内の一人ではないかとも推測されている。

(入口)
入口

(本堂)
本堂

(醍醐塚)
醍醐塚

参考文献:三刀屋町誌、大日本史料データベース

感想:「楠木刑部輔正清」は恐らく楠木正成のことだと思いますし、嘉暦年間に後醍醐天皇は隠岐に流されておらず、矛盾が多いです。
 南朝に味方して自害した武将の女性が当地に来て長厳寺を開基したのかもしれません。それに尾鰭がついて楠木や名和の名前が出るようになったのかも、と勝手に想像しています。