出島(近世、海外に開かれた人工島)

●出島
住所:長崎県長崎市出島町6-1(中に入るのは有料)
駐車場:近隣の有料駐車場を利用

 出島(でじま、でしま。築島とも呼ばれた)かつては長い岬の先端に築かれた扇形の人工島だった。
 近世初期、江戸幕府は体制を守るため、徐々に日本人の海外への渡航禁止、キリスト教の禁教令と次第に閉鎖的な政策を打ち出していった。寛永12(1635)年に全ての船の入港を長崎港に限り、寛永13(1636)年に出島を完成させ長崎市内に分散して居住していたポルトガル人を収容した。寛永14(1637)年に島原の乱が起こるとポルトガル人は追放され、寛永18(1641)年に平戸にあったオランダ商館を移転し、国内唯一の西欧との窓口としている。
 警備の船と陸上の番人に見張られ、当初はポルトガル人を収容するための牢獄という認識を西洋人は持っていたようである。北方の出島橋のみが長崎市街と繋がっており、奉行所係員・特定商人・遊女のみ出入を許可された。出島ではキリスト教禁止令があったため表立ってできなかったクリスマスを、冬至に偽装したオランダ冬至などが行われ、日本人役人や通詞らを招待している。
 幕末に日本が欧米と再び通交していくと出島は役割を失っていき、慶応2(1866)年には外国人居留地に編入され、プロシア人やフランス人が入居した。明治18(1885)年から埋め立てが始まり、明治37(1904)年には四方が埋め立てられ島としての出島は消失した。
 大正11(1922)年の国指定史跡を皮切りに整備が進み、平成時代になると建物などが復元されている。現在は長崎市を代表する観光地となっている。

(西側護岸石垣)
西側護岸石垣

(水門。南側は輸入用、北側は輸出用に使われていたとのこと)
水門

(西から見た出島全景)
全景

(表門橋。平成29(2017)年に完成したばかりらしい)
表門橋

(東から見た出島全景)
東から見た出島全景

(十四番蔵。砂糖が保管されていた)
十四番蔵

(組頭部屋と銅蔵。組頭とは乙名(おとな。長崎で町役人。一町に一人おき、長崎奉行に属して町内百般の事をつかさどった)の補佐役のこと)
組頭部屋と銅蔵

組頭部屋と銅蔵

組頭部屋と銅蔵

(石倉。現在は考古館になっている)
石倉

石倉

(昭和51(1976)年に製作されたミニ出島)
ミニ出島

ミニ出島

(旧出島神学校。明治11(1878)年に建てられた)
旧出島神学校

(表門。ここで出入りする人を改めていたそうな)
表門

(筆者蘭人部屋。オランダ商館員が住んでおり、数人の書記がいた)
筆者蘭人部屋

(どこだか忘れた。多分、西の方)
西の方

(カピタン部屋。オランダ商館長(カピタン)の内部。展示館になっている)
オランダ商館長

オランダ商館長

オランダ商館長

(乙名部屋)
乙名部屋

乙名部屋

(料理部屋の中にあるクリスマス(オランダ冬至)の様子)
料理部屋

(一番船船頭部屋。西側に船長の一人が滞在し、東側に商館の事務員が住んでいた)
一番船船頭部屋

一番船船頭部屋

一番船船頭部屋

一番船船頭部屋

参考文献:出島公式サイト、長崎県の地名、長崎県の歴史散歩

感想:平成7(1995)年に行きましたが記憶がなかったので再訪しました。一日で長崎市の観光地を回る必要があったため、ところどころ飛ばしています。中の展示物もあまり見ていません。
 ここで衝撃的なことがありましたが、とてもネットには書けないので自分の記憶に留めておきます。



肥前 三城城(富松神社。大村純忠の居城と大村氏が崇敬した神社)

●肥前 三城城(富松神社)
住所:長崎県大村市三城町
駐車場:あり
遺構:曲輪、空堀、土塁
標高:36メートル/比高:21メートル

 三城城は大村純忠によって永禄7(1564)年に築城された。命名の理由は大村氏の本拠地であった肥前藤津郡(佐賀県の鹿島市・嬉野市など)にあった三城村(現在地不明)から取ったという。築城の理由は領土の拡大による家臣の増加と、防衛力の強化のためであったと考えられている。
 元亀3(1572)年7月30日、肥前武雄の領主・後藤貴明(大村純忠の義理の兄弟)、島原の有馬鎮純、平戸の松浦隆信、諌早の西郷純堯の連合軍が三城城を攻撃した。内応者も出て追い詰められた純忠であったが、大村氏旧臣の富永又助忠重が城外から西郷軍に奇襲をかけ、連合軍を撤退させることに成功した。この戦いで大村軍の主な武将が大村純辰・朝長純盛・朝長純基・今道純近・宮原純房・藤崎純久・渡辺純綱の七人だったことから、三城七騎籠と呼ばれる。
 天正4(1576)年、大村純忠は菅無田合戦で龍造寺隆信に敗れ風下に置かれ、天正11(1583)年には波佐見に蟄居させられたが、天正12(1584)年の沖田畷の戦いで隆信が戦死したことから支配を脱している。慶長4(1599)年、純忠の息子・喜前は玖島城を築城して移り、寛永14(1637)年に幕府の命により三城城は破却された。

 富松神社は祭神が天児屋根命、健磐龍命など。佐賀県唐津市相知町にある医王寺の大般若経の奥書に「正平19(1364)年に)肥前大村の富松宮社で写経した」と記されているのが初見である。大村氏は宗廟とする太良山大権現(佐賀県藤津郡太良町の多良岳山頂)が参拝に不便なため、富松神社を遙拝所としている。
 天正2(1574)年、キリシタンの焼き討ちに遭い焼失したが、慶長7(1602)年に大村喜前が再建した。近世まで富松大権現、飛松大権現と称していたが、明治元(1868)年に現在の社号となる。

(曲輪Ⅳ。場所は下にスクロールするとある縄張図を参照。土塁があった。一部は富松神社の駐車場になっている)
曲輪Ⅳ

曲輪Ⅳ

曲輪Ⅳ

(富松神社。神社が先にあって、そこに城が築城された)
富松神社

富松神社

富松神社

富松神社

富松神社

(市杵島神社)
市杵島神社

市杵島神社

(曲輪Ⅰ。大きな建物は昭和7(1932)年に建てられた長崎県忠霊塔で、これを建てるため遺構の一部が破壊されている)
曲輪Ⅰ

曲輪Ⅰ

曲輪Ⅰ

曲輪Ⅰ

(曲輪Ⅴ。ここは整備されておらず倒れた竹が多く進みづらかった。巨大な土塁が見所だった)
曲輪Ⅴ

曲輪Ⅴ

曲輪Ⅴ

曲輪Ⅴ

曲輪Ⅴ

(曲輪ⅠとⅡの間にある空堀)
空堀

空堀

空堀

(曲輪Ⅱ。ここが一番整備されている。)
曲輪Ⅱ

曲輪Ⅱ

曲輪Ⅱ

(曲輪ⅡとⅦの間にある空堀)
空堀

(曲輪Ⅲ。ここも竹藪になっていた)
曲輪Ⅲ

曲輪Ⅲ

曲輪Ⅲ

曲輪Ⅲ

曲輪Ⅲ

(おまけ。城から降りる際の住宅街にいたヤギ。「紙を食べさせないください」と注意書きがあったと記憶している)
おまけ

参考文献:長崎県の地名、日本城郭大系 第17巻、長崎県中近世城館跡分布調査報告書2、長崎県の歴史、富松神社公式サイト、現地の案内板

感想:曲輪Ⅴ以外は見学しやすい城でした。曲輪Ⅵは神社の境内らしく立入禁止になっていました。そこから発射した火縄銃の弾丸が見つかり、三城七騎籠での戦いの痕跡ではないかと推測されているそうです。
 西九州新幹線が通る際、城をどうするか協議されたそうですが見る限りは破壊されずに残ったようです。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


掲載の縄張図について


北有馬町西正寺キリシタン墓碑(八良尾のキリシタン墓碑群)

●北有馬町西正寺キリシタン墓碑
住所:長崎県南島原市北有馬町丙5495(字 服田)
駐車場:なし

 共同墓地の一角に4基のキリシタン墓碑が集められており、向かって左から3番目を除く3基が県の文化財に指定されている。台付扁平形柱状伏碑の無紋無銘墓碑が1基、正面軸部に浅いくぼみをつけて花十字紋を浮彫りにした墓碑が1基、残る1基は花十字紋入り扁平形柱状伏碑あり、左端と左から2番目は小さいことから、子供の墓碑ではないかと推測されている。
 隣の地区の字名は八良尾といい、天正16(1588)年から文禄4(1595)年までの間に前後2回セミナリヨ(セミナリオ。キリスト教の学校)が移された。墓碑や寺跡のある高台を地元では「寺屋敷」「教会跡」などと呼んでいる。

(入口)
入口

入口

(キリシタン墓碑)
キリシタン墓碑

キリシタン墓碑

キリシタン墓碑

キリシタン墓碑

参考文献:長崎県の地名、現地の案内板、長崎県の文化財、キリシタン文化研究シリーズ3(八良尾のセミナリヨ)

感想:長崎県の公式サイトを見る限りは個人所有だそうです。そのためかあまり手入れがされていないように感じました。文句ではなく余裕がないのでは、という意味です。