●口之津港
住所:長崎県南島原市口之津町丙
駐車場:あり
有明海の入口にある津(港)のため口之津と呼ばれるようになったという。島原半島の南西に位置し、天草諸島の下島まで船で僅か9キロの距離にある。景行天皇が九州巡幸で島原半島が陸続きかを確認させるため神大野宿禰を派遣した際、神大野宿禰が上陸したのが口之津だという伝説がある。建保3(1215)年、有馬氏の祖といわれる藤原経純が弁済使(税金の徴収などを行う役人)として口之津に入ったと伝わる。
永禄5(1562)年、有馬義貞が口之津港をイエズス会に提供し布教と教会建設の許可を出し、上長・コメスデ・トルレス神父に宣教師の派遣を要請した。そのため口之津は全住民がキリシタンになったといわれるほど信者が増えている。永禄10(1567)年にはポルトガル船が入港し、以降は国際貿易港として発展し口之津港から出た船が台湾、呂宋、カンボジアなど東南アジアの国々と貿易を行っている。
天正12(1584)年、龍造寺隆信の軍勢が島原半島にも及び海陸から襲撃される可能性が出てくると、イエズス会の準管区長は高台の堅固な教会を砦として住民(=キリシタン)を避難させるようフロイスを派遣している。だが、同年2月に沖田畷の戦いで龍造寺隆信が戦死すると危険は去り、それからもキリスト教の布教の中心地区として栄えた。
慶長19(1614)年、領主の有馬晴信が日向の延岡(宮崎県延岡市)に移封され、幕府の公領になった後、松倉重政が領主となると苛烈なキリシタン弾圧が始まり、表立っての信仰はなくなっていく。寛永14(1637)年、島原・天草一揆が起こると12月9日には対岸の天草諸島の一揆勢が口之津に上陸した(原城を参照)。
近世、海外貿易が禁止されると口之津港は風や潮を待つ港となる。明治時代になると三池炭鉱(福岡県大牟田市から熊本県荒尾市にまたがる炭鉱)の石炭の積出港として重要視され、長崎に石炭を運んでそこから海外に輸出するための中継地となった。
現在は熊本県天草市の鬼池港を結ぶフェリー乗り場になっている。
(アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父の像。天正7(1579)年、口之津港に来て有馬セミナリヨの設立や天正遣欧少年使節団の派遣などに尽力した)

(おまけ。お店も定食の名前も忘れたが、口之津に寄って次の目的地に向かう途中に昼食を食べた)

参考文献:長崎県の地名、長崎談叢
感想:内容は口之津地区と港の歴史が混ざっています。
予定には入れていなかったのですが、ヴァリニャーノ神父の像があるのを知って寄ってみました。あとで確認したら島原半島の歴史には欠かせない港でした。



