長谷堂城(慶長出羽合戦の舞台)

住所:山形県山形市長谷堂

 標高227メートル。築城年代は不明だが、1514年に伊達稙宗によって占拠された記録があるため、それ以前から存在していたことが分かる。最上氏の手に戻ってからは南西の守りの拠点として整備された。
 1600年の関ヶ原の戦いでは最上領内に侵攻した直江兼続率いる2万の軍勢を相手に城主・志村光安が猛攻に耐えて守りきったことは良く知られている。1622年の最上氏改易の際に廃城となった。

(城を囲んでいた水堀の一部)

(井戸の一つ・御前清水)

(遠景)

(城の入り口の一つ・観音坂口)

(城内に建つ長谷堂観音)

(本丸と城址碑)

(本丸からの風景。方角は不明)

感想:2007年、2013年の二度訪問したのですが、どちらも時間が無く写真も中途半端なものばかりです…。今度、時間のある時にゆっくりと見て廻りたいです。


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加藤掃部左エ門の碑(加藤掃部左衛門清次の供養塚)

住所:山形県山形市長谷堂

 最上義光の家臣・加藤掃部左衛門清次は伊達政宗の母・保春院の警護役を務めた武将で、長谷堂城の戦いに参加して長谷堂城の戦いで戦死したと伝わる。後日、加藤家が墓標として石を建てた。一度は別の場所に移転されたが、2000年に当地に戻されている。

(加藤掃部左エ門の碑)

(五輪塔の頭の部分だろうか?)


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主水塚(上泉主水泰綱の供養碑)

住所:山形県山形市長谷堂

 上泉伊勢守信綱の孫・上泉主水泰綱は上杉景勝に仕え長谷堂城の戦いに参加した。しかし撤退の際に最上義光の家臣・志村光安と戦って戦死してしまう。合戦後、地元の住民が泰綱を含む両軍の戦死者を埋葬し塚を建て供養したのが主水塚である。


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