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【黒衣の宰相】1608年に徳川家康の命により駿府に赴き外交事務の担当をするようになる。1612年から京都所司代・板倉勝重と共に宗教行政を担当している。1613年には伴天連追放令を作成した。その後も禁中並公家諸法度や寺院法度、武家諸法度の作成に関わっている。
【豊臣家を滅亡に追い込む】1614年、崇伝は家康から「なんとか豊臣家と追い落とす方法がないか」と相談を受けた。そこで崇伝は「夏に方広寺の大仏開眼供養がありますが、その鐘銘に『国家安康』『君臣豊楽』という文があります。『国家安康』は家康公の名を引き裂いており『君臣豊楽』は豊臣家を主君として楽しむ、という意味にとれます」と助言。これで言いがかりをつけては、と提案したのだ。これにより『方広寺鐘銘事件』が起こり豊臣家を開戦に走らせたのは有名な話しである。
政治で辣腕を振るったので人気がなく、庶民は『大欲山気根院僣上寺悪国師』とあだ名し大徳寺の沢庵宗彭は『天魔外道』と評している。 管理人・・・崇伝について『徳川四天王―精強家康軍団奮闘譜』の中で「早くから家康に仕え、三方ヶ原の戦いにも参加し、本営に迫る敵に対し自ら刀を振るって首級三つを上げた」と載っていたですが、この時、崇伝は数え歳で四歳(!)です。ただの間違いだとは思いますが・・・。 参考文献:徳川四天王―精強家康軍団奮闘譜・戦国人名事典 コンパクト版・大坂の陣―錦城攻防史上最大の軍略・江戸幕閣人物100話、ほか UPDATE 2002年1月15日Copyright (C) 2002 Tikugogawa. |
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