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1561年に父が亡くなると、板倉家は弟の定重が跡を継いだが、1581年の遠江高天神城攻めで戦死してしてしまう。そのため、家康の命で還俗して跡を継いだ(ちなみに兄の忠重は松平好景の家臣となっていたため家督を継げなかった)。1586年に駿府町奉行になり、1590年に徳川家が関東に移されると江戸町奉行・小田原地奉行・関東代官を兼任する。
【京都所司代】関ヶ原の戦いで徳川家が全国を掌握し、京都も支配化に入れると、京都町奉行となった。1601年9月からは加藤正次の跡を継いで京都所司代に就任。この人事は、本多正信が推薦したと言われている。
この事件で幕府が朝廷の問題に介入できる先例が出来、今後に非常に意味を持つものとなった。この功で1614年に1万石の加増があり、1万6千石の大名になっている。 【大坂の陣の功労者】勝重は大坂の陣でも活躍している。きっかけとなる方広寺の造営の工事監督を務め綿密な報告を家康にし、鐘銘問題では金地院崇伝らと共に裏でことを進め、大坂の陣が始まってからも大坂城五人衆の入城など大事な情報を素早く家康に伝えている。そして豊臣家贔屓だった朝廷の動きを封じこめ、政治の世界からも徳川軍を援護している。
【公家諸法度】大坂夏の陣で豊臣家が滅ぶと、幕府は課題の一つだった朝廷の締め付けに着手。7月30日に禁中並公家諸法度を公布し、天皇や公家の行動などに大幅な制限をした。これに対して朝廷側はかなりの不満を持ったが、伝える役目だった勝重は有無を言わせなかった。
勝重の裁判に関してはこんな話しがあります。京都で力があり板倉家にも出入りしていた商人が、隣の家の敷地を勝手に使っていました。これに怒った隣の家の人が裁判を起こします。この時、商人は瓜を持って勝重を訪ね、境界線のことをよく検討していただきたい、と頼んだところ、勝重は「分かった」と言い、瓜を受け取りました。 参考文献:徳川四天王―精強家康軍団奮闘譜・江戸幕閣人物100話・戦国人名事典 コンパクト版、ほか UPDATE 2002年1月22日Copyright (C) 2002 Tikugogawa. |
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