板倉重昌

(いたくらしげまさ)

生没年:1588年〜1638年/ 身分:家康の近習/ 官位(通称、号):内膳正

【期待された若者】板倉勝重の三男(次男とも)。駿府に生まれる。1603年に徳川家康の近習となった。1605年に内膳正に任ぜられる。1609年に千石を賜わり、松平正綱・秋元泰朝とともに近習出頭頭となり、山城国内で千石を与えられた。1614年に三河額田郡内で1200石を加増される。

【使者】大坂冬の陣では和議交渉の軍使となって、大坂城に入り豊臣秀頼の誓紙を受け取っている。軍使として選ばれたのは、豊臣家が木村重成という若者を送ってきたので「徳川家にも有望な若者がいるぞ」というのを見せつけるために送ったと言われている。夏の陣では天王寺口を守った。1624年に父の遺領の分け与えられ、三河深溝1万9千石の領主となる。

島原の乱戦没者の墓
西尾市貝吹町入の長円寺にある島原の乱戦没者の墓

【風雲・島原】1637年に九州で島原の乱が起こると、徳川家光の命で追討使に任ぜられる。1637年12月6日、松倉藩を先頭に出撃し、肥前の有馬村で鍋島勝茂・細川忠利などの九州の藩が集結。重昌は3万もの大軍で一揆勢の篭る原城を囲んで、陣地の構築を始め、完成するまで攻撃を命じなかった(が一部が勝手に攻撃し、被害が出ている)。
 19日に構築が取り合えず終わり、立花忠茂・有馬豊氏などが加わったので、総攻撃を命じたが、一揆勢の抵抗は思いのほか激しく、徳川軍は数百人の死者を出す大敗北を喫した。

【追い詰められる】この頃、松平信綱が上使として江戸を立ち九州に向かっていた。これを聞いた徳川軍の兵士達は「重昌がなかなか攻め落とせないので、派遣されたのだ」と噂し始めた。実際は関係がなかったのだが、これを知った重昌は焦り冷静さを失った。

板倉重昌の墓
西尾市貝吹町入の長円寺にある板倉重昌の墓

【覚悟の戦死】そのため彼は、諸将に持久策を命じていたにも関わらず、なんとしても城を落とさなければならないと考え始めた。そこで正月なら敵も油断しているだろうと勝手に思い込み、全軍に対して総攻撃を命令。徳川軍の兵士達はいきなり変更された命令に唖然としながらも全力で城を攻撃したが、一揆勢は万全の態勢で待ち構えており、なんら前回の攻撃の際と状況は変わらなかった。それを見た重昌は陣頭に立ち指揮したが、胸に銃弾を浴び絶命してしまった。西尾市貝吹町の長円寺に葬られる。
 この正月の戦いでの戦死は覚悟の上だったらしく、出陣の朝に次のような辞世の句を残している。『あら玉の としにまかせて 咲く花の 名のみ残すを さきがけと知れ』

管理人・・・最後は悲惨だった彼ですが、子供の頃は兄よりも賢いと言われたり、家康の信頼が篤かったりと、とても期待されてたそうです。
 また、理由はよく分からないですが、城の引き渡し役みたいなのをよくやっていて、1621〜1633年の間に亀山・福知山・熊本・小倉・松江の各城でそれを行っています。以上、大坂の陣より島原の乱での方が有名な板倉重昌さんでした。

参考文献徳川四天王―精強家康軍団奮闘譜日本合戦全集5 天下平定編戦国人名事典 コンパクト版三百藩藩主人名事典、ほか

UPDATE 2002年1月23日
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