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【謎の多い半生】幼名・兵太郎。父は二本松畠山氏家臣の子孫・船木景光。母は葦名盛常の娘。陸奥国会津郡高田郷の出身で三浦氏の一族とも言われている。生まれた歳も1509年から1536年と様々である。11歳で僧になった天海は陸奥高田の龍興寺に入り弁誉舜幸の弟子となる。後に比叡山に行き修行するが1571年に織田信長の比叡山焼き討ちにあい、命からがら脱出している。その後は甲斐の武田信玄を頼って落ち延びた。1573年に葦名盛氏を要請で会津に行く。
これで供養は一時中断。それから有名な方広寺銘文事件に発展し、大坂の陣が始まるのである。この大坂の陣での天海の活躍は分からないが、堀を埋めるなどの陰謀の手助けをしていたのは間違いないだろう。
【神号を決める】1616年4月1日、死の床にあった家康は天海・金地院崇伝・本多正純の3人を呼び自分の遺体をどう扱うかについて遺言をした。4月17日に家康が亡くなると、彼の神号と葬儀のやり方について同じ僧で側近であった崇伝と議論し合う。天海は権現にすべきだと主張し、崇伝は明神だという自説を曲げない。ずっと話し合いが続いていたが天海の「明神は豊国大明神と繋がって不吉だ」という一言によって『東照大権現』の神号が決まった。この事件をきっかけに天海の力はさらに強くなった。
かなり出来た人で、お咎めを受けた人達の罪をなんとか軽減するように嘆願し比叡山を再興し、家康の鷹狩の時間を近習の者が早起きしなくていいように遅めに変えた方がいいと助言しています。そのおかげで諸大名の尊敬を益々受けたそうです。 これだけの人物なのに家康に会うまでのことがよく分かっていないのが不思議です。ですから明智光秀説がでるんでしょう。 参考文献:戦国人名事典 コンパクト版・江戸幕閣人物100話・会津葦名時代人物事典、ほか
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