亀田高綱

(かめだたかつな)

生没年:1558〜1633年/ 身分:浅野家の家臣/ 官位(通称、号):大隈守

【浅野家の勇将】尾張葉栗郡の出身。父は溝口半左衛門といい柴田勝家の家臣だった。高綱は最初、溝口半之丞と名乗り柴田家に仕えていたが、そこを追放され亀田権兵衛と名前を変えて浅野長政に仕える。その後、小田原征伐・朝鮮出兵・関ヶ原の戦いに従軍し功があり、浅野家が紀伊に移封されると7300石を与えられた。

高綱の墓
和歌山県の高野山にある高綱の墓(中央のもの)

【浅野家の勇将】大坂夏の陣の樫井の戦い上田重安と共に豊臣軍を撃退した。1619年に浅野家が安芸広島に移封される際、新しく紀伊に来る徳川頼宣への和歌山城引渡しを担当する。広島に移ると備後双可郡東城の領主となり因幡・出雲・備中との国境守備を任された。

【出奔】1624年に浅野長晟の命令で上田重安の息子と高綱の娘を結婚させることになったが、高綱がこれを拒否し和泉堺に勝手に隠遁した。
 これを見た水野勝成らが調停したが上手く行かず、長晟は「他家に仕えないなら去ってもいい」という条件を出し高綱はこれを了承する。そして紀伊伊都郡下天野に移り住み、1633年に死亡した。法名・傑山万鉄居士。

管理人・・・樫井の戦いでの武功争いで重安と仲が悪くなったと言われています。彼は紀伊に隠遁した際に『亀田大隈武功覚書』という本を書いてます。

参考文献三百藩家臣人名事典・和歌山県史・戦国人名事典 コンパクト版大坂の役

UPDATE 2003年2月11日
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