徳川頼宣

(とくがわよりのぶ)

生没年:1602〜1671年/ 身分:駿河駿府50万石の大名/ 官位(通称、号):右近衛中将

徳川頼宣の墓
高野山奥の院にある徳川頼宣の墓

【紀州徳川家】徳川家康の十男として伏見城で生まれる。母は於万の方。1603年に兄・武田信吉の遺領、常陸水戸20万石を継いだ(しかし水戸へは一度も行かなかった)。1609年に駿河・遠江50万石に移封され家康のいる駿府城に入る。大坂の両陣に参加した。1617年に中納言となる。
 1619年に紀伊と伊勢の一部を合わせて55万石を与えられ、和歌山城に入った。難治で有名な紀伊に着いた頼宣はさっそく牢屋を造って強硬な姿勢を見せると共に、小牧長久手の戦いで徳川軍に協力した者や熊野八庄司(熊野三山の別当家)の子孫や一族などを優遇する。また城下の整備、和歌山城の修築などにも力を入れた。

【警戒される】東海道の要所・駿府から和歌山に移された頼宣は世間から不満を抱いていると見られ、慶安の乱に加担したという疑いを始め、和歌山城の大規模な修築や鯨突(鯨を追い掛け回して討ち取ること)を連日行ったため何度も幕府から疑いをもたれたが、その都度かわした。
 1667年に隠居し、1671年1月10日死亡した。法名・南竜院殿二品前亜相覬永天晃大居士。和歌山県海草郡下津町の長保寺に葬られた。

徳川頼宣の墓
和歌山県海南市下津町上689の長保寺にある徳川頼宣の墓

管理人・・・頼宣は和歌山行きが嫌だったらしく、和歌山に近づくと段々山深くなってきたので機嫌が悪くなったそうです。それを家老の安藤直次が「何か起きたときにはこの山が頼りになります」と言ったのでなんとか機嫌を直したそうな、、、。想像以上の山国だったんでしょう。
 そのせいか幕府とも度々摩擦がありましたが、家康の息子という誇りもあったからでしょう。以上、御三家の一人・徳川頼宣さんでした。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典・和歌山県史

UPDATE 2005年2月19日
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