亀井政矩

(かめいまさのり)

生没年:1590年〜1619年/ 身分:因幡鹿野4万3千石の大名/ 官位(通称、号):豊前守

鹿野城
鳥取市鹿野町鹿野にある政矩の居城である鹿野城

【尼子再興の夢】亀井茲矩の子。茲矩は山中鹿之助と共に尼子氏再興のために戦ったが、夢破れて因幡の大名となった人物である。
 政矩は1590年に鹿野城に生まれる。1602年に初めて徳川家康に拝謁し、1604年には豊前守の官位を与えられ徳川秀忠の近習となった。

【因幡の大名】1609年4月には、丹波・篠山城主だった松平康重の娘(休子)と結婚し、1612年に父が亡くなると因幡鹿野4万3千石を継いだ。
 1614年に大坂の陣が起こると、1700の兵と共に参陣し、両陣ともに本多正信の軍に編入される。その大坂出陣にあたって伯耆大山の下山神社に武運長久を祈っている。1615年7月、大坂落城の祝勝会に参加した後、鹿野に戻った。

亀井政矩の墓
京都市東山区高台寺下河原町526の高台寺にある亀井政矩の墓

【津和野へ】1617年に石見津和野城主の坂崎直盛が改易されると、津和野に同じ石高で移封された。この時の引越しは非常に時間がかかり寛永年間(1624〜1644年)に終了したと言われている。
 1619年5月に広島城の福島正則が改易となると、堀尾忠晴森忠政ら西国の大名と共に、亀井家も家老・多胡水主が出動した。この時、政矩は伏見で病中であったが、急いで広島に駆け付けている。しかし幕府の上使は「無理をしなくてもいい」と言い、政矩を津和野に帰国させた。
 8月、上京途中の伏見の狼谷で馬が暴れだし落馬。それが元で1619年8月15日に亡くなっている。遺骸は親しかった高台院ゆかりの寺・高台寺に葬られた。

管理人・・・政矩は山中鹿之助の娘婿・亀井茲矩の息子です(政矩は鹿之助の娘の子ではありません)。1619年8月に上京の命令があったのは、亀井家が今まで忠節を尽くしてきた功に酬いるのに、幕府が姫路城に移封する話をするためだったそうです。あの重要な姫路を任されかけたということは、幕府からの絶大な信用があったということですね。以上、津和野藩の基礎を築いた亀井政矩さんでした。お墓は高台院のお墓のすぐ横にあります。

参考文献:亀井茲矩・戦国人名事典 コンパクト版戦国大名諸家譜戦国大名諸家譜

UPDATE 2002年2月25日
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