●肥前 釜蓋城(千々石城)
住所:長崎県雲仙市千々石町己(字 本城平、東城平、北城平、城山)
駐車場:あり
遺構:曲輪?
標高:116メートル/比高:17メートル
城の西から北にかけて上峰川が流れている。島原半島の西目口(島原城と半島の南部や西部を結んだ街道)を押さえる場所に位置する。
永禄12(1569)年、有馬晴純の息子・千々石淡路守直員(有馬義貞と大村純忠の弟)によって築かれたという。永禄~元亀年間(1558~1573年)に有馬義純は深堀衆が茂木(現長崎市の茂木地区)に進撃したのを知り千々石から兵を送ったが、陣屋や兵糧米など焼失したため千々石に軍勢を戻している。永禄6(1563)年頃、イエズス会の修道士アルメイダは大村純忠の弟(千々石直員と思われる人物)の居城を訪ねたというが、釜蓋城だったかは不明。
元亀元(1570)年、直員は横造城(佐賀県鹿島市)の加番(数不足を補うために定番の城番の副となって加わり、城の警備にあたった者)の最中に、龍造寺隆信の攻撃を受け、石切谷の戦いで討ち死にした。直員の跡は大和守澄員が継いでいる。
天正5(1577)年、龍造寺隆信が島原半島に進軍し釜蓋城も攻撃を受け、澄員は自害し城は龍造寺軍が占拠した。天正10(1582)年12月5日、有馬晴信の要請に応じた島津氏が軍勢を派遣し釜蓋城を攻め有利な戦況だったが、略奪に夢中になり城を落とさず引き返したという。天正12(1584)年3月24日の沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討ち死にすると、僅か二日後の26日には龍造寺軍が城を捨てて撤退した。
天正遣欧使節の正使として有名な千々石ミゲル(清左衛門直員)は永禄12(1569)年に当城で直員または澄員の子として生まれたという。
現在、城跡は橘公園として整備されている。
(城の南側。さすがにこの石垣は公園整備の時のものだろう。曲輪もこのような形だったのかも不明。最後の写真の石は古そうだが、ここは近世には畑になっており昭和時代には蜜柑畑があった。石はその時のものか)

(北側は曲輪群のように見える場所がある。ここも畑だったように見えるが素人の自分には判断がつかない)

(模擬天守(櫓)の展望台。建築の専門家じゃないので分からんが、バランスが悪そうだが大丈夫か)

(模擬天守の近くにある石仏・神父像。キリシタンの遺物で市指定文化財になっている)

参考文献:日本歴史地名大系 長崎県の地名、日本城郭大系 第17巻、長崎県の歴史散歩、吾妻町史、角川日本地名大辞典42 長崎県、現地の案内板
感想:有名な千々石ミゲルの出身地ということで行ってみました。ご覧の通り、公園として整備されてない箇所も遺構なのか畑跡なのか分からない状態でした。
標高はどの本も155メートル前後になっているのですが、自分がスマホで計った時も国土地理院地図も120~130メートルくらいしかなかったです。『角川日本地名大辞典42 長崎県』には「(橘公園は)かつての釜蓋城の”麓”に位置し」とあるので公園整備の際に削ったのでしょうか。近くに高い山も見当たりません。












