住所:三重県鈴鹿市中若松町1丁目
天明2(1782)年、神昌丸で出航した大黒屋光太夫らは遠州灘で消息を絶ったため亡くなったものと思われ、天明4(1784)年に江戸の長谷川氏によって乗組員の供養碑が建てられた。しかし寛政4(1792)年に光太夫と磯吉は帰国。享和元(1802)年に里帰りをし供養碑の前で亡くなった仲間のために念仏供養を行なっている。
(供養碑その2。供養碑の右に建つのは光太夫の養子先である亀屋の墓。光太夫の法名・久味信士と遭難した年(供養碑が建てられた時、いつ亡くなったのか分からなかったので仮に付けられた命日)も刻まれていた)

感想:光太夫と磯吉にとっては逆修墓になるのでしょうか。

