太陽を味方に

 渡辺幸庵(茂)は『渡辺幸庵対話』のなかで天王寺・岡山での最終決戦でのことを以下のように記している。
真田幸村は強い大将でその兵士達も勇壮だった。ただし天王寺・岡山での最終決戦で徳川軍が負けたのは幸村の勇気ばかりではない。徳川軍は太陽に向かって進んだ故、実力を出し切れなかったのだ。逆に幸村は太陽を背負って徳川軍をよく見分けて戦ったために旗本までが崩れてしまい、徳川家康も生玉まで退却した。家康さえそうだったのだから、旗本が崩れるのは仕方がない。このことは徳川家では秘密のことだ。難波戦記などにもこの部分は記してないのでいろんな噂がある。
 この説は二人の旗本から聞いた。一人は大田太郎左衛門だが、大坂の陣の時は12〜3歳で役には立たず家康の側に馬廻りとして置かれていただけだった。もう一人は横田甚右衛門だが、井伊直孝と仲が良く直孝に遠慮して記録には残さなかった。この負け戦の時に出羽守(坂崎直盛か?)、堀尾忠晴が横槍を入れたが、これは昼になって太陽が少し南に回ってのことだ』

真田幸村戦死の碑
大阪市天王寺区逢坂の安居神社にある真田幸村戦死の碑

管理人・・・私は太陽の向きを意識して大阪城周辺を歩いたことがないのですが、6月頃の昼前に天王寺方面から南に向くとちょうど太陽を背にできるんでしょうか。また逆に北に向くと逆光になってまぶしいのでしょうか。
 もしこれが本当なら豊臣軍は前半は有利な条件の中で戦っていたんですね。

感想など
小豆餅孟喜さん・・・先ずタイトルが良いです。幸村なら太陽の位置を計算に入れたことは、十分あり得ますね。

UPDATE 2005年6月11日
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