和議を受け入れる

 1614年12月16日、徳川家康は中井正清らを呼びつけ、射撃の名手を選んで大坂城の櫓を撃ち破れと命令した。備前島の菅沼織部の攻め口から大筒100挺で撃ちこんだため、大坂城の女子供は慌てふためいた。
 そのため、七手組・織田長益(有楽斎)大野治長らは会議を開き、豊臣秀頼を諌めて和議を成立させようとしたが、秀頼は反対。
「篭城したのは運を開くためではなく、ただ亡き父の遺戒(後人のために遺した教えのこと)に任せてこの城で死ぬつもりである。新参の者(浪人衆)の本心が知りたい」

備前島
現在の備前島

 そこで長宗我部盛親真田幸村仙石秀範後藤基次(又兵衛)毛利勝永らを呼んで意見を求めた。
 基次は豊臣軍の現状を語った。
「徳川軍の中でこちらに内通する将はなく、大坂城の弾薬・兵糧も限りがある。第一、篭城している者達の心が一致団結していない。先日、大坂城の南側を守る雲生寺(織田有楽斎の子・織田長頼)が射撃を止めさせ、誤って撃った者を処罰した。このせいで敵が堀際まで近づき、去る4日には堀を乗り越え攻撃を仕掛け来た。この時、女子供までが瓦や礫を投げて応戦し押されていたのに、雲生寺は出てこなかった。こんな状況では戦えない」
 淀殿も和議に同意。
「秀頼のために関東に下る」
 二人の後押しを受けて、長益や治長が最後の説得にかかった。
「家康は70歳余りの経験豊かな武将で武威は盛んだ。徳川軍は一致団結しており、大軍で時節を得て天下も保っている」
 すると秀頼は笑って和議の成立を受け入れている。(『官本三河記』)

織田有楽斎夫妻の墓
京都市東山区大和大路四条下る小松町の正伝永源院にある織田有楽斎夫妻の墓

管理人・・・誰も抗戦する気がないため、秀頼は思わず笑ってしまったんでしょう。諦めの笑いという感じで哀愁を感じます。

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