淡輪重政

(たんのわしげまさ)

生没年:?〜1615年/ 身分:豊臣家の家臣/ 官位(通称、号):六郎兵衛

淡輪重政の墓
泉佐野市南中樫井にある淡輪重政の墓

 淡輪良重の息子。淡輪家は和泉淡輪の豪族で豊臣秀吉に仕えた。妹は豊臣秀次の側室となり、小督局と呼ばれたが、秀次が謀反の罪で処刑されると小督も一緒に処刑され、淡輪家はそれに連座して所領を没収されてしまう。
 そのため重政も一時浪人となったがのちに肥後の小西行長に仕えた。しかし小西家も関ヶ原の戦いで改易されてしまい、またも浪人となってしまう。
 大坂の陣が起こると大坂に入城し、夏の陣で地形に詳しいことから紀州攻めの先鋒を務めた。1615年4月29日、塙直之らと共に浅野軍と戦い奮戦するが(樫井の戦い)、多勢に無勢、永田新兵衛に首をあげられてしまう。

管理人・・・塙直之と共に活躍したことで知られています。写真の左奥の墓は1639年に会津藩に仕えていた本山三郎右衛門(淡輪家の一族)が建てた言われています。
 重政の兄・重利は浅野家に仕えています。

参考文献戦国人名事典 コンパクト版大坂の役、ほか

UPDATE 2002年8月18日
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