藤堂良勝

(とうどうよしかつ)

生没年:1565〜1615年/ 身分:藤堂家の家臣/ 官位(通称、号):新七郎

鳥取城跡
良勝が攻めた鳥取城跡

【従兄弟】父は多賀良政。母は藤堂忠高の娘。藤堂高虎の従兄弟。祖父・多賀良氏は近江佐々木家の家臣だったが良政が2歳の時に戦死したため、良政は祖母と一緒に親族の藤堂忠高の元に身を寄せた。そこで良政は成長したが伊勢での戦いで戦死してしまう。残された良勝は虎高(高虎の父)に育てられ、その妹を妻とした。

【活躍】1577年の三木城攻めで初陣し、1578年の摂津神崎の戦いでは水練の技術を活かし川中で敵の足を捉えて首を獲る。その後良勝は鳥取城攻め、備中高松城攻め・山崎の戦い・賤ケ岳の戦い・紀州征伐・四国征伐・九州征伐・小田原征伐に従軍し勇名を馳せた。
 そしてその功に対して高虎が豊臣秀吉よりもらった名刀と鞍馬を与えた。また宮部継潤からも九州征伐の功を賞して馬と黄金を贈られている。1595年に高虎が伊予今治の大名になると1千石を与えられた。朝鮮出兵にも従軍し巨済島の海戦で敵の船に一番乗りし火をかけ大戦果を上げたので黄金と1千石を加増される。

藤堂良勝の墓
常光寺にある良勝の墓

【加増を断り続ける】関ヶ原の戦いでは大谷吉継の陣に猛攻撃をしかけ藤堂軍全体の名を高めた。その功で8千石の加増を与えられるということになったがこれを断る。1609年に高虎は再び1万8千石の加増を命じたが断ったため、高虎は遂に激怒した。そこでようやく良勝は3千石の加増だけを受ける。大坂冬の陣では当初留守をしていたが、渡辺了が高虎と衝突し罷免されたため、良勝が後任となった。
 冬の陣後、またも高虎から2万石の加増を命じられ、いよいよ断りきれなくなった良勝は大坂の陣が無事終われば受けるという条件で了承する。
 大坂夏の陣では右先鋒を務め従軍。そして若江の戦い木村重成隊と激突し副将・藤堂良重と共に奮戦の末、戦死した。遺体は八尾市本町5−8−1の常光寺に葬られる。子孫は代々新七郎を名乗り重臣として藤堂家に仕えた。

管理人・・・勇将です。若江の戦いでも自分の隊よりはるかに数の多い木村重成隊相手に大奮戦をしています。彼の子孫・新七郎良忠は俳諧の才能があり、松尾芭蕉の主人です。

参考文献:藤堂高虎家臣辞典・大坂の役三百藩家臣人名事典

UPDATE 2002年11月13日
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