渡辺了

(わたなべさとる)

生没年:1562〜1640年/ 身分:藤堂家の家臣/ 官位(通称、号):勘兵衛

伊豆山中城
了が一番乗りを果たした静岡県三島市一番町にある伊豆山中城

【猛将】実名は吉光とも。渡辺右京の子。1562年に近江浅井郡速水庄で生まれた。浅井長政の旧臣・阿閉貞征に仕え、1577年に初陣し、その後、摂津・伊賀などで戦い戦功を立てる。
 1582年に阿閉氏を去り、豊臣秀吉に仕え、糠山城攻めで功があり、羽柴秀勝の家臣となり2千石を与えられた。そして四国征伐などで戦功を立てたが、秀勝が亡くなったため、中村一氏の家臣となり3千石を与えられる。1590年の小田原征伐では伊豆山中城で一番乗りをしたが、一氏が秀吉に了の戦功を報告しなかったため怒って中村氏を去り、高野山に登った。その後、増田長盛に招かれ客将となった。

臥龍山荘
了の屋敷跡に建っている愛媛県大洲市大洲の臥龍山荘

【高虎に仕える】1600年の関ヶ原の戦いでは増田家の居城・大和郡山城の留守をする。西軍が負けた後に城を藤堂高虎に包囲され明け渡すように言われたが「主君の許可無しでは城は渡せない」と拒否し抵抗した。しかし長盛からの書状が届いたため城を明け渡す。この縁で高虎に招かれ、2万石を与えられた。1608年に藤堂家が伊勢・伊賀に移封されると伊賀上野城の城代となる。
 大坂の陣が起こると左先鋒となったが、高虎と意見が対立したためその任を解かれた。夏の陣では息子の守に属して従軍したが、またも八尾の戦いで目の前に現れた長宗我部盛親と戦うべきかそのまま進むべきかと迷う高虎と意見が対立し、本戦で苦戦する味方を無視して持ち場から動かなかった。その後、長宗我部隊が撤退する際に久宝寺で追撃戦をし損害を与えたにも関わらず、評価されなかったため藤堂家を去る。

勘兵衛の墓
中京区新京極通三条下ル桜之町453の誓願寺にある勘兵衛の墓

【筆頭浪人】その際、高虎から奉公構い(秀吉が考えた方法で、元雇っていた大名が、「この者は問題があるので雇うのはやめてください」という回状を諸大名に発するもの)を受けどこにも行けず近江に蟄居し浪人となってしまう。そこで幕府は会津の蒲生家への仕官を勧めたが了は徳川将軍家の家臣にこだわってこれを拒否した。その後、幕府と高虎が度々藤堂家への帰参を画策したが、了はこれもすべて拒否している。
 1630年に高虎が亡くなると、江戸に移り住み奉公構いの撤回を幕府に願い出た。しかしこれは藤堂家に拒絶され撤回されなかった。そのため了は再び近江に戻って各地の大名からの捨扶持をもらいながら余生を過ごす。1640年7月24日死亡。

管理人・・・藤堂家の家臣の中では一番名が知られているんじゃあないのでしょうか。武功だけで2万石までいったとはかなりの人だったんでしょう。八尾の戦いでの重要人物の一人で、長宗我部隊が崩れたのを見て取ってから攻撃をしかけ5月6日の時点で藤堂軍を徳川軍の中でもっとも前に進めています。以上、その才能をいろんな大名に愛された渡辺了さんでした。

参考文献:藤堂高虎家臣辞典・大坂の役戦国人名事典 コンパクト版、ほか

UPDATE 2002年11月8日
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