藤堂高刑

(とうどうたかのり)

生没年:1577〜1615年/ 身分:藤堂家の家臣/ 官位(通称、号):仁右衛門

藤堂高刑の墓
八尾市本町5−8−1の常光寺にある高刑の墓(中央のもの)

 本姓・鈴木。鈴木弥右衛門の息子。母は藤堂高虎の姉。1591年に大坂の藤堂屋敷で増田長盛を烏帽子親として元服し、彼の旧称・仁右衛門の名前を授かった。1592年の朝鮮出兵で初陣をし、海戦で敵の船を奪うという功を立てる。
 関ヶ原の戦いでは大谷吉継の家臣・湯浅五助を討ち取り、徳川家康からお褒めの言葉と共に槍を賜った。大坂冬の陣では右先鋒を、夏の陣では左先鋒を指揮する。1615年5月6日の八尾の戦い長宗我部盛親隊の猛攻撃をまともに受け、多くの兵士と共に戦死した。

管理人・・・八尾の戦いでの重要人物の一人です。高刑は高虎の甥ということでトントン拍子に出世し、1万石(5千石とも)という大名並みの領地まで得ています。高刑の妻は織田信清の娘で淀殿の又従兄弟にあたるので、彼女の意向で高虎の養女にしていたそうです。彼の家は代々、仁右衛門を称し、家老を務めています。

湯浅五助隆貞の墓
岐阜県不破郡関ヶ原町にある湯浅五助隆貞の墓

 高刑には関ヶ原の戦いで有名な逸話があります。戦いが沈静化した夕刻、高刑は疲れて水を探して山の間に入り込みました。すると一人の武将がうずくまっていたので近づいて見ると、大谷吉継の家臣・湯浅五助でした。
 五助が名の知れた武将だったので高刑は好機と思い勝負を挑みました。しかし五助が疲れていたためすぐに押さえられてしまい尻餅をつきました。五助はそれでも高刑の槍を切ったので、高刑は太刀で攻撃しようとしました。
 すると五助は
「待ってくれ。実は今、主君の首を埋めたのだが、主君は癩病(癩菌の感染によっておこる慢性伝染病。知覚が麻痺したり、皮膚が栄養障害を起こしてくずれたりする。当時は不治の病だった)で、見苦しい顔になっているので絶対に漏らさないでくれ」
 と頼みました。それを聞いた高刑は五助の忠義に感動。
「なんという忠義者か。このことは神に誓って他言しないぞ」
 五助は大いに喜んで自分の首を差し出します。

 そして高刑がその首を高虎に見せると、高虎は歓喜。家康の本陣につれて行き、そのことを報告しました。
「それは大手柄だが五助はその方にあっさり討たれるような武将ではない。どうやったのか」
 報告を受けた家康が尋ねました。そこで高刑は、吉継の首のことを伏せて話をすると、家康は疑問を口にしました。
「そうか。だが五助は吉継の死を見届けずに討たれるはずはない。もしかして五助が始末したのではないのか」
「知らないわけではありませんが、五助と他言しないと話した上で首を獲ったので話すわけにはいきません。どうぞ罰を仰せ付けください」
 高刑の返答を聞いた家康は笑って
「律儀な若者がいるものだ。正直に話せば高虎の手柄となるものを」
 と言い、切られた槍の代わりに、自分の槍と刀を与えたという話が『平尾氏剳記』に載っています。

参考文献:藤堂高虎家臣辞典・大坂の役・日本の戦史 関ヶ原の役・三百藩家臣人名事典

UPDATE 2002年9月3日
Copyright (C) 2002 Tikugonokami.