藤堂高吉
生没年:1579〜1670年/ 身分:藤堂家の家臣/ 官位(通称、号):宮内少輔

【期待された子】丹羽長秀の三男。母は朝倉家の家臣・若杉越前守の娘で織田信長の姪にあたる。丹羽長重・丹羽長正の弟。幼名・仙丸。1582年に豊臣秀吉が柴田勝家に対抗するため、丹羽長秀の抱き込み政策として高吉を弟・豊臣秀長の養子として迎えた。
当初は秀長の嫡子とする予定だったが、1588年に秀吉は秀保(三好一路の子)を改めて嫡子とすることを決める。しかし高吉の才覚を愛していた秀長はこれに反対し、二人の仲は険悪なものとなった。そこで秀長の家臣だった高虎は秀吉に高吉を養子にしたいと願い出て貰い受ける。この時、高吉は秀長から1万石を贈与され、秀吉からも宮内少輔に任ぜられ、名を高吉と改めた。

【小藤堂】1592年の朝鮮出兵で初陣し朝鮮半島各地で奮戦して、秀長に愛された才覚を発揮する。関ヶ原の戦いにも従軍し功があった。1604年に加藤嘉明との騒動で伊予野村に蟄居したが1606年に許されて、江戸城普請を務め徳川家康から1万石を加増され今治城主となる。
高虎が伊勢・伊賀に移封となった後も今治城主として残った。大坂冬の陣では高虎軍の中軍の大将として850人の兵を率いて従軍する。夏の陣でも同じく中軍の大将として八尾の戦いで長宗我部盛親隊相手に奮戦し、翌日の天王寺・岡山での最終決戦では藤堂軍先鋒隊壊滅のため、左先鋒を務めた。

【家臣に・・・】1630年に高虎が亡くなると江戸へ向かったが途中、近江水口で藤堂家の家臣に止められ「家督は実子の高次に決まったので江戸下向は必要ない」と言われ引き返している。1631年7月に高次と共に京都へ行き徳川家光に謁見した。
1635年8月、松平定房が今治へ移封となったので、伊勢国内に2万石で移封となる。その後、高吉は高次に半強制的に伊賀名張に移封され2万石は宗家の領土に加えられ、大名から家臣の地位に転落させられた。高吉の家臣達はこれを不服としたが、高吉はこれを押さえて300の家臣と共に名張に移る。その後、藩の政務からは距離を置いて過ごし、1670年7月18日死亡した。

管理人・・・悲劇の人ですね。最初は丹羽の力が必要だったので、秀長の嫡子になりますが、丹羽家に用が無くなったら廃嫡。そして藤堂家に行きますが、ここでも実子が出来た
ため廃嫡。最後は諸侯の座から引きずり落とされてただの家臣に・・・。あんまりです。『小藤堂』と称されたほど智勇兼備の武将で諸将に注目されるほどの人だったのに。
名張移封の件ですが、高次は豪気な人だったのですが、高吉だけにはライバル意識があってそれで移封させたという説もあります。以上、みんなにその才覚を愛された藤堂高吉さんでした。
参考文献:藤堂高虎家臣辞典・大坂の役・三百藩家臣人名事典・戦国人名事典 コンパクト版、ほか
UPDATE 2002年9月3日
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