伊達盛重

(だてもりしげ)

生没年:1553〜1615年/ 身分:佐竹家の家臣/ 官位(通称、号):三河守

人取橋古戦場の跡
盛重が活躍した福島県本宮市青田茂庭にある人取橋古戦場の跡

【伊達家の重臣】伊達晴宗の五男。伊達政宗佐竹義宣の叔父にあたる。1580年に国分氏の養嗣子となり、小泉城に住んだ。1585年の人取橋の戦いでは300人を率いて戦い功があり、1590年の葛西大崎一揆では軍門の人質となって伊達軍の戦略を有利に導く。それからも度々功をあげ伊達の姓と家紋を賜って一門となった。

【突然の出奔】しかし1596年に突然改易され佐竹義宣の下に奔る。原因は何者かの讒言によって政宗が盛重に兵を差し向けたので戦ったが追い払うことが出来ず、落ち延びたためと言われている。佐竹家では一族として大切に扱われ侍大将の地位を与えられた。この際に嫡子ではない男子に国分の姓と能登守の官位を譲っている。

【横手城主】1602年の秋田移封にも従い、そこでは横手城主となり千石を与えられた。大坂冬の陣に従軍し今福の戦いで先鋒として奮戦したが、夏の陣では病気のために従軍できなかった。そしてその病気が治らず1615年7月15日死亡した。法名・良雄道智大禅定門。秋田市の白馬寺に葬られた。

管理人・・・本文中に出てくる『軍門の人質』が意味が分からなかったのですが、そのまま載せました。

参考文献三百藩家臣人名事典・秋田人名大事典

UPDATE 2003年12月7日
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