毛利勝家

(もうりかついえ)

生没年:1601〜1615年/ 身分:大坂城五人衆の子/ 官位(通称、号):式部

【脱出】毛利勝永の長男。土佐で勝永が囚われの身の時に生まれる。1614年10月、大坂の陣が起こると父・勝永が山内忠義の味方をすると申し出て勝家を久万に人質として差し出す。しかしこれは本心ではなく豊臣家に味方するために山内家を欺くためのものだった。その後、毛利家の家老・宮田甚之丞が油断している山内家の隙をついて勝家をさらい、そのまま船に乗って大坂へ入城した。これを知った留守役の山内康豊は激怒したが後の祭りだった。

【残された二人】脱出の時、勝永の妻と次男の太郎兵衛が残されたが、徳川家康から「勝永の志は殊勝である。残った妻子の罪を問うてはならない」と山内家に命があったため、高知城内に招かれ丁重に扱われている。

高知
勝家が住んでいた高知

【奮戦】勝家は父・勝永の手に属して戦ったが冬の陣では大した活躍はなかった。
 夏の陣の天王寺・岡山での最終決戦では本多忠朝隊と戦い、鎧武者の首を取って勝永に見せるが「これが最後の戦いだ。敵の首など取ってもしょうがない。捨てておけ」と言われる。その後も再び鎧武者を討ち取るという活躍をした。
 豊臣軍の敗北が決定的になると父と共に大坂城に戻り、豊臣秀頼一行と共に自害して果てた。享年16歳。弟・太郎兵衛も幕府によって処刑された。

参考文献真田戦記大日本史料(第十二編15〜20)・大阪城の七将星

UPDATE 2002年11月9日
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