山内忠義

(やまうちただよし)

生没年:1592〜1664年/ 身分:土佐高知20万石の大名/ 官位(通称、号):土佐守

高知城
忠義が城主だった高知城

 山内康豊の長男。伯父は小身から土佐一国の大名にまでなった山内一豊。一豊に男子がいなかったため、養子となる。1605年に一豊が亡くなると土佐20万石(実質は24万石と言われている)を継いだが、幼かったため、しばらくの間は父の康豊が後見を行なった。大坂冬の陣では五千の兵を率いて船場に陣を構える。
 その前後に江戸城の築城、材木の献上、広島城の受け取りなどがあり、土佐藩の財政は傾いたが、野中直継(兼山の養父)らに借金の整理を行なわせ、危機を脱した。1631年には野中兼山を抜擢して、新田開発、用水路の整備などを行い、土佐藩の基礎を築く。また神社や寺院の復興にも力を注ぎ、尾戸焼を始めさせるなど、文化振興にも功績がある。1664年死亡。

山内忠義の墓
高知市筆山町の筆山公園にある山内忠義の墓

管理人・・・忠義は上記のように数多くの功績を残し、名君として知られていますが、またそれと同時に変わったエピソードの多い大名としても知られています。彼は鎌髭(鼻の下から左右へ鎌をさかさまにしたような形にはね上げたひげ。肖像画なんかでよく見るやつです)を日本一だと自慢して他に鎌髭の男がいると悪さをする癖があったそうです。
 ある日、紀州徳川家の屋敷で飲んだ帰りに鎌髭の男を見つけ、その髭を引っ張って放さなくなり、飲み直すように勧められてなんとか収まったとか、家臣で鎌髭の男がおり、酒の入った忠義が、彼と出くわしボコボコにしたなど、鎌髭に関する逸話が伝わっています。またお酒の話が出てくるので分かると思いますが酒豪としても知られています。
 以上、高知の基礎を築いた山内忠義さんでした。

参考文献三百藩家臣人名事典戦国人名事典 コンパクト版、ほか

UPDATE 2006年6月20日
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