横山長知

(よこやまながちか)

生没年:1568〜1646年/ 身分:前田家の家臣/ 官位(通称、号):大膳

大講堂
長知が住んだ比叡山にある大講堂

【前田家を救う】横山長隆の次男。1583年に前田利長に仕え、末森城の戦いなどで活躍した。1599年に前田家に謀反の噂が流れた時、五大老筆頭の徳川家康と謁見し、事細かに申し開きし危機を救っている。
 翌年の関ヶ原の戦いでは、大聖寺城攻めで功があり、1602年5月には太田長知(ながとも)を利長の命で殺し、それらの戦功で3万石の領主となった。しかしその後、利長と折り合いが悪くなり、1614年に致仕し京都の山科に移り住み(のち比叡山に移り住む)夕庵と号する。

【重臣】だが同年の大坂冬の陣で再び前田家に仕え元の3万石を与えられた。夏の陣では先鋒として活躍し、その功で6月に従五位下山城守に任ぜられる。それから本多政重と共に前田家の国家老として政治を執り補佐した。1645年に隠居し、1646年1月21日に死亡する。石川県金沢市東兼六町5−6にある松山寺に葬られた。

管理人・・・前田家の重臣中の重臣です。元和・寛永の頃、直江山城守兼続・竹腰山城守正信と共に三山城守と呼ばれたそうです。前田家を一時期、致仕したのは奥村栄頼の讒言のせいだったと言われていますが、真相は不明です。

参考文献三百藩家臣人名事典戦国人名事典 コンパクト版、ほか

UPDATE 2002年6月1日
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