保科正貞

(ほしなまささだ)

生没年:1588〜1661年/ 身分:保科家の家臣/ 官位(通称、号):弾正忠

保科正直の墓
長野県高遠町の建福寺にある正貞の父・保科正直の墓

【間借り】武田家の重臣・保科正直の三男として生まれる。母は徳川家康の異父妹の多劫。兄には保科正光がいる。1594年に正光に実子がいないため、家康の命で彼の養子となった。大坂夏の陣では本多忠朝の陣を借りて出陣し、体に槍や鉄砲傷を4箇所も負う重傷となったが、功を上げる。

【保科家を継ぐ】1617年に正光に徳川秀忠の息子・正之が入ったので、後に領地は正之が継ぎ、宗家の家督は正貞が継ぐこととなった。1622年に事情があって保科家を去り、諸国を放浪した後に桑名藩主の松平定勝のところに身を寄せる。1629年に幕府に仕え3千石を与えられた。
 その後、大坂城や二条城の在番を務め、1648年に大坂定番の職と上野飯野1万7千石を与えられる。1661年11月1日死亡。法名・源松院天永高本大居士。東京都杉並区和泉の大円寺に葬られた。

二条城
正貞が在番を務めた二条城

管理人・・・保科家の家督のことなんですが、保科正重っていう家督候補の人がいたんですけど小日向氏からの正光の養子になっただとか正直の次男で庶子だったとか説があってどんな人物かよく分かりません。とにかくその人は家督から外されたそうです。また正貞は1637年に保科正之から保科家の宝物などを渡されて正式に宗家の家督を相続したと認められたそうです。
 正貞が1622年に保科家を去った理由ですが、書いてなかったのでよく分かりませんでしたが、覚悟の二人を読んでいただいて分かるとおり、正光とあまり仲が良くなかったんでしょうね。

参考文献三百藩藩主人名事典、ほか

UPDATE 2005年1月4日
Copyright (C) 2005 Tikugonokami.