保科正光

(ほしなまさみつ)

生没年:1561〜1631年/ 身分:信濃高遠2万5千石の大名/ 官位(通称、号):肥後守

高遠城跡
正光が城主だった高遠城跡

【生き延びる】武田家の重臣・保科正直の長男として信濃高遠に生まれる。1582年の甲州征伐では新府にいたが、途中で妻の実家の真田昌幸を頼って落ち延びた。本能寺の変後、徳川家康が信濃に勢力を伸ばしてくると、父とともに家康に属す。そして小牧長久手の戦い、小田原征伐で功を上げ、1590年に徳川家が関東に移封されるとそれに従って下総多古に移った。

【大苦戦】それからも陸奥の九戸政実の反乱、朝鮮出兵での名護屋在陣にも従い、関ヶ原の戦いでは遠江浜松城を守備する。この間に時期はさだかではないが家督を継ぎ下総多古1万石の大名となった。
 関ヶ原の戦い後に信濃高遠2万5千石に移封される。大坂冬の陣では淀城の守備についた。夏の陣では、天王寺・岡山での最終決戦毛利勝永隊に正光自身が怪我を負うほどの苦戦するが、首級14を得る戦功をあげる。

保科正光の墓
長野県高遠町の建福寺にある保科正光の墓

【将軍の子を預かる】1617年に徳川秀忠が庶子・正之の存在を妻のお江与の嫉妬を恐れて、正光に預け養子とさせた。1618年に5千石を加増される。1620年に正光は小日向氏から来ていたもう一人の養子・正重との間に後継者争いが起きないように正之を跡継ぎとする遺言書を書いたが、正重が亡くなったため問題は起きず、正之が家督を継ぐことに決まった。1631年10月7日死亡。長野県高遠町の建福寺に葬られる。

管理人・・・正光は信仰心の厚い人で、城内にあった諏訪神社が庶民が参拝できないからと城外に移したり、多古の樹林寺の中にあった観音を模造して、同じ名前の寺を建ててそこに納めたりしています。
 正重の早世ですが、資料には何も書いてなかったんですが、なんかタイミングよく亡くなってて怪しい雰囲気がするんですが、、、。うがち過ぎですか?
 ちなみに知らない方はいないと思いますが、正之は会津松平家の藩祖で将軍を補佐した保科正之のことです。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版・高遠町史・徳川四天王―精強家康軍団奮闘譜・保科正之のすべて、ほか

UPDATE 2005年1月4日
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