堀親良

(ほりちかよし)

生没年:1580〜1637年/ 身分:下野真岡1万2千石の大名/ 官位(通称、号):美作守

堀秀政の墓
神奈川県小田原市早川にある父・秀政の墓

【秀吉のお気に入り】堀秀政の次男。豊臣秀吉に仕え、1590年に秀政が亡くなると越後国内で2万石を与えられた。翌年には美作守の官位と羽柴の姓を与えられ、『秀』の字を与えられて秀家と名乗る。1598年4月に越後蔵王4万石を与えられた。関ヶ原の戦いでは上杉景勝が扇動した一揆勢と三条城で戦い首級300余りを得る。

【主家を去る】1602年に一族の堀直政や兄の秀治と仲が悪くなり秀治の子供を養子にして跡を継がせ越後を去った。そして妻の実家である紀伊の浅野家に行き浅野幸長と相談の上、徳川家康に謁見し家康の命令で本多正純の家臣となる。1606年には下野真岡1万2千石の大名として復帰した。大坂の両陣では土井利勝に属して佐久間安政、脇坂安元らと共に戦う。

【徳川家に尽くす】その後、宇喜多秀家と名前がかぶるために親良と改名し、羽柴姓も捨て堀姓に戻した。1618年に日光東照宮普請など今までの功績が認められて美濃国内で5千石を加増される。1627年には8千石を加増され下野烏山城を与えられ合計で2万5千石の大名となった。1637年5月13日死亡。法名・東江寺殿前作州太守梅也宗月大居士。最初、麻布の祥雲寺に葬られたが、東京都渋谷区の東江寺に改葬された。

管理人・・・秀吉から気に入られていて11歳で大名にしてもらい、秀吉が亡くなった際には形見に『助真の刀』を拝領しています。気に入られていた理由は不明です。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版

UPDATE 2004年4月4日
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