佐久間安政

(さくまやすまさ)

生没年:1555〜1627年/ 身分:近江高島2万石の大名/ 官位(通称、号):備前守

佐久間家墓所
高野山にある飯山佐久間家墓所

【ゲリラ】佐久間盛次の子。初めは保田知宗の養子で、保田姓を名乗っていた。同族・織田家の重臣・佐久間信盛の与力だったが、信盛が織田信長に追放された後は柴田勝家に仕える。1583年の賤ヶ岳の戦いでは兄・佐久間盛政隊の先鋒として活躍したが、豊臣秀吉軍の反撃で敗北した。
 勝家が北ノ庄城で自害すると、織田信雄を頼り、小牧・長久手の戦いでは紀伊から河内方面を攻めている。織田家と豊臣家の和睦後は各地を転々とし弟・勝之と共に豊臣家に対してゲリラ戦を行ったがことごとく失敗し飛騨に逃げ込む。しかしここも危なくなり、小田原城の北条氏政を頼った。

【命を助けられる】しかし小田原征伐で北条家が降伏し、いよいよ逃げ場がなくなると、蒲生氏郷に秀吉への取り成しを頼む。これに対して秀吉は「天下も平定されたので命だけは助けてやろう」と言い7千石を与えた。
 関ヶ原の戦いでは、やはり豊臣家が憎かったらしく東軍に属し、その戦功で1万5千石の大名となる。大坂の両陣にも参加し、冬の陣では徳川家康から木津川口の砦の偵察を命じられた。戦後、信濃飯山3万石に加増される。1627年4月25日死亡。

管理人・・・勇み足で有名なあの佐久間盛政の弟が生き残ってしかも大名になっていたなんでまったく知りませんでした。秀吉を嫌っており徹底して豊臣家に反抗をしています。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国大名諸家譜戦国人名事典 コンパクト版

UPDATE 2002年2月7日
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