柴田五左衛門

(しばたござえもん)

生没年:1583〜?年/ 身分:豊臣家の家臣/ 官位(通称、号):五左衛門

伊達政宗及び殉死者供養塔
高野山にある伊達政宗及び殉死者供養塔

 元は富塚宗総と名乗った。富塚宗綱の次男。富塚信綱の弟で山川賢信の兄にあたる。1600年の上杉軍との戦いで敵将・安田勘助と馬上で組み打って弟と共に討ち取る。しかしこの功を伊達政宗が認めず、これに怒って伊達家を出奔した。そして大坂城に入り名を柴田五左衛門と変え大坂の陣で奮戦した。落城後は不明。

管理人・・・山川賢信の兄のはずなのに全然大坂の陣では目立ってません。この人が出奔したのが、賢信出奔の原因かもしれません
 五左衛門にはもう一つの説があって、守屋俊重という名で二階堂家の家でしたが、のちに伊達家に仕えた武将という話があります。俊重は1600年の上杉軍との戦いで敵将・武田勘助と一騎打ちして討ち取りましたが、政宗に評価されなかったことを怒り大坂城に入って豊臣軍として戦ったとなっており、本文とは微妙に違っています。山川賢信との絡みの話がないことから考えてこっちが正しい気がします。

参考文献:仙台人名大事典、ほか

UPDATE 2003年8月15日
Copyright (C) 2003 Tikugonokami.