真山俊重

(まやまとししげ)

生没年:不詳/ 身分:伊達家の家臣/ 官位(通称、号):正兵衛

小松山
道明寺の戦いの激戦地、小松山

【源氏】真山家は源氏の出で、最初は諏訪姓で途中で三塚と変えた。その後、栗原郡金田荘真山に住んだので地名を姓とした。
 真山家は大崎の家臣で1586年に氏家弾正が大崎家に反乱を起こした際に伊達家に使者として向かった。そして1591年に伊達政宗が陸奥岩出山に移封されるとその家臣となる。その後、真山家は朝鮮出兵・関ヶ原の戦いで功があった。

【公平な男】俊重は分家を立て1607年に勘定役となり、後に近習となる。大坂夏の陣の道明寺の戦いで小野弥左衛門と蒲倉仁兵衛が首級を得て先後を争った際、首を付ける役の俊重は「二人とも勇戦に優越はない。功は等しい」と両方を評し、その公平な性格を皆から褒められた。
 2代藩主・忠宗の時に評定所の記録役となり、その公平な性格で訴訟を聞き書き留めた。それがのちの資料となったという。

管理人・・・その資料は『真山記』と名が付けられ史料として重宝された(されている?)そうです。

参考文献:仙台人名大事典・三百藩家臣人名事典

UPDATE 2003年9月22日
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