那須資景

(なすすけがげ)

生没年:1586~1656年/ 身分:下野那須郡内で1万4千石の大名/ 官位(通称、号):左京大夫

那須家六代の墓
栃木県那須烏山市南1丁目4-25の天性寺にある那須家六代の墓

【減封】下野国那須郡の豪族・那須資晴の息子。母は結城晴朝の娘。那須氏の先祖は源義経に従って屋島合戦で活躍した那須与一。小田原征伐の際に資晴が小田原参陣を拒否したため、いったんは領地を没収されたが家臣の大田原晴清が資景を連れて謝罪したため5千石だけは安堵された。1591年に5千石を加増される。

【加増】関ヶ原の戦いでは小山に行き徳川家康に謁見、また白沢で徳川秀忠に謁見し異心がないことを誓った。1602年に1千石を加増される。1610年に資晴が亡くなるとその遺領6千石を継いで、合わせて1万4千石(一説には1万7千石)の大名となる。大坂の陣では本多正信に属して従軍し、夏の陣で落人の首75級を討ち取った。1623年の徳川家光上洛の際に供奉した。1656年に死亡。

管理人・・・資景は一度は息子の資重に家督を譲りましたが、資重が亡くなってしまったため領土を取り上げられかけました。しかし家名が絶えることを惜しまれて、再び資景が家督を継いでいます。ただし領地は5千石に削られています。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国大名諸家譜戦国人名事典 コンパクト版

UPDATE 2004年4月25日
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