大田原晴清

(おおたわらはるきよ)

生没年:1567〜1631年/ 身分:下野大田原12415石の大名/ 官位(通称、号):備前守

大田原家墓所
高野山奥の院にある大田原家墓所

 大田原綱清の嫡男。大田原氏は下野の土豪で那須七騎の一つ。1590年の小田原征伐では沼津で豊臣秀吉に謁見し所領を安堵された。この時に主人である那須資晴が参陣を拒んだことになっていたが、晴清は彼の息子の資景と家臣と共に「病による遅参」と弁明し領土を削られたものの那須家の改易だけはまぬがれさせる。
 関ヶ原の戦いでは上杉景勝の様子を徳川家康に伝えた。家康が宇都宮に来るとそれを出迎え、石田三成が近畿で挙兵すると領地で上杉軍に備える。1602年に下野国芳賀・那須郡、陸奥国磐城郡内で4500石を加増され12415石の大名となった。
 大坂冬の陣では河内平野口を守り、夏の陣では本多正信に属して落人の首70を獲る。1622年に最上家が改易されると9月から10月まで山形城を守備した。1628年から1629年まで大坂城番を勤める。1631年2月5日、江戸で死亡。法名・奪勝院殿印国永金大居士。栃木県大田原市の光真寺に葬られた。

参考文献戦国人名事典 コンパクト版三百藩藩主人名事典戦国大名諸家譜

UPDATE 2004年4月8日
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