●三好義紹の墓
住所:鳥取県米子市福市
元弘2(1332)年、後醍醐天皇が隠岐に流される際、皇女・璋子内親王も正体を隠して従ったが正体を知られてしまい伯耆米子の安養寺に入り出家した。この時、付き従っていた三好孫三郎も安養寺に残って璋子内親王に仕える。時代は下り、三好氏は長慶の時代に近畿・四国で覇を唱えたが長男・義興が若年で亡くなるなどして衰退。本国の阿波までも失ってしまう。
義興の息子・義資は、所縁のあった安養寺と米子城主・中村一忠の家老となっていた三好一族の横田内膳を頼り米子に移り住む。しかし慶長8(1603)年の米子騒動で横田一族は討たれ、義資の息子・義紹も討たれてしまう(義資はこの時、すでに亡くなっていたと思われる)。
その後、生き残った義紹の長男・義信は姓を稲田に変え帰農し、次男の長政は姓を変えず町人となっている。
(三好義紹の供養塔。横の碑文には元和8年(1622年)に中村一忠によって討たれたとありましたが、慶長8年(1603年)の間違いだと思います。慶長8年はちょうど米子騒動のあった年ですし、元和8年はすでに鳥取藩の池田家が治めていた時代ですから・・・。阿波城主というのは不明ですが、阿波の国主という意味でしょう)

(璋子内親王と三好孫三郎が皆生の海に散歩に行った様子を描いたもの)

感想:年代など合わないところがありますが、こういった伝承もあるということで・・・。写真は稲田さんの許可をいただいて載せています。ありがとうございました。
個人の墓なので場所は載せていません。

