本多正重

(ほんだまさしげ)

生没年:1545〜1617年/ 身分:近江坂田郡内で1千石の領主/ 官位(通称、号):三弥左衛門

掛川城
正重が攻めた静岡県掛川市掛川にある掛川城

 本多俊正の四男。本多正信の弟。徳川家康に仕えていたが、1563年に正信と共に三河一向一揆に組して徳川家に敵対した。しかし1564年に帰参し、遠江掛川城攻め、姉川の戦い、武田軍との一言坂の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなどで活躍した。
 だが徳川家を去り、滝川一益に属し播磨神吉城を攻める、前田利家に属して佐々成政と戦うなどした後に、蒲生氏郷に仕える。しかし1596年に氏郷と喧嘩をし三度(みたび)徳川家に仕えた。関ヶ原の戦いでは検使を務め、その功で1602年に近江坂田郡内に1千石を与えられる。
 大坂の陣では徳川秀忠に付けられ軍の参謀として活躍し、その功で1616年に下総相馬に1万石を与えられた。1617年7月3日死亡。京都の泉桶寺に葬られた。

管理人・・・正重は武勇は優れており織田信長に賞賛されるほどでしたが、三河武士らしく主君にも遠慮なく何でもずばずば言うため、家康は快く思ってなかったそうです。また官位を生涯受けずに通称の三弥で通しています。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版

UPDATE 2005年8月7日
Copyright (C) 2005 Tikugonokami.