伊達宗直

(だてむねなお)

生没年:1577〜1629年/ 身分:伊達家の家臣/ 官位(通称、号):相模

白石城
宗直が活躍した宮城県白石市益岡町1にある白石城

【名君】伊達稙宗の八男で梁川城主・伊達宗清の息子。1599年10月に白石家を継いだ。1600年7月の白石城攻防戦で功があり、その後の上杉軍の侵略に対しても最上義光の援軍として活躍する。
 同じ1600年に和賀郡の旧領主・和賀忠親が南部利直に対して反乱を起こした際、伊達政宗の命を受け彼を助けたが、これが徳川家康にばれたため責任を取って1604年に登米寺池城に移された。
 そこは所領が名目上1万5千石になっていたが、戦争などで住民の流出と田畑の荒廃が相次ぎ米がほとんど獲れなかった。そのため宗直は北上川の改修や新田開発、出て行った住民を呼び戻すなどを行ない数年で2万数千石の石高にまで戻し豊かな土地を作り上げる。

【大坂の陣で活躍】大坂冬の陣では木津今宮に陣する。1615年に伊達秀宗が宇和島に来る際に受け取りを行ない秀宗を出迎えた。大坂夏の陣では道明寺の戦いで功がある。1616年に伊達姓に戻る。1629年7月21日死亡。法名・瑞鳳常徳洞林寺。東昌寺に葬られたが、1644年に養雲寺に改葬された。

管理人・・・宗直の五男・伊達宗倫は、伊達騒動の発端となった伊達宗重との境界線争いの相手として知られています。宗直が亡くなった時には家臣8人が殉死しています。慕われていたんでしょう。

参考文献伊達政宗のすべて・仙台人名大事典・三百藩家臣人名事典

UPDATE 2003年8月1日
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