福留親政(1576〜1656年)

官位・通称:半右衛門・七郎兵衛・伝右衛門・浄安
 儀重の子。祖父・飛騨守親政と同名。名は政親とも。朝鮮出兵では長宗我部元親に従って出陣、久武親直の隊に属して朝鮮軍17人を絡め取っている。関ヶ原の戦いでは撤退戦で他の3人と殿を務め盛親から銀子を賜った。その後に起きた浦戸一揆では一揆勢に斬り込んで鎮圧に尽力している。
 盛親の改易後は、伊予松前城主・加藤嘉明に仕え寺尾喜右衛門の婿となった。1604年に一族の寺尾壱岐守が新田に関する裁判に敗れて蟄居させられたため、喜右衛門と親政は壱岐守を救出しよううとしたが、権七に計画が知られ屋敷を取り囲まれてしまう。喜右衛門の命で産後の肥立ちが悪い妻を足手まといになるからと殺した後、屋敷に火をかけると、追っ手を振り切って讃岐に逃亡する。
 その後、親政は嘉明の追っ手から逃れるため岡半右衛門と名を変えて井伊直孝に仕えた。大坂の冬の陣に従軍し、城南の戦いに参加。和睦の最中に旧主・盛親と会い、盛親から祖父・飛騨守親政と儀重の忠勇を賞されている。夏の陣の若江の戦いでは首を二つ獲っている。
 帰陣後に加賀に移り住んだが、やがて尾張徳川家に仕え名前も戻している。1656年3月28日に死去した。
 ※大坂の陣絵巻福留親政もご覧下さい。
 ※逸話については大坂の陣絵巻旧主との再会酒好きに載せています。

愛媛県伊予郡松前町筒井にある伊予松前城跡
伊予松前城跡
UPDATE 2012年4月19日
Copyright (C) 2012 Tikugonokami.