福留親政(1511〜1577年)

官位・通称:飛騨守
 名は儀実とも。房吉の子。福留氏は尾張海東郡にあった助光城を本拠としていたが、初代・儀光が平経盛に属して讃岐屋島の戦いに参加して敗れたため、そのまま讃岐に住んだと伝わる。その後、土佐に移り住み、やがて長宗我部氏に仕える。
 親政も長宗我部国親元親に仕え、1558年に周辺の城主が岡豊城を攻めた際に城を打って出て追い返し『福留の荒切り』と呼ばれた。1563年に安芸国虎が元親の不在を狙って岡豊城を攻撃した際も撃退している(一般には、この時に『福留の荒切り』と呼ばれたということになっている)。
 その後も戦功を重ね、元親から生涯に感状を21通も賜り、土佐田辺島城と土佐秦泉寺城を預けられた。伊予侵攻でも活躍したが、1577年3月9日に戦死する。遺骸は灰にされ田辺島の山上に埋葬された。

愛知県名古屋市中川区助光一丁目の助光城跡(伝・福留氏発祥地)に建つ土之宮神明社
助光城跡
UPDATE 2012年4月13日
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