徳川家旗本らの窮乏

 1615年春、徳川家康は名古屋の徳川義直の婚儀に行くと言って出発し、終了後に上洛することを企てていた。その頃、去年と当年の両度の出馬に旗本達は困窮しており不満がたまり、文句を言う者もいた。
「しばらくの間、上から少々の助けもしてほしい」
 これを知った本多正純は「もっともだ」と考え、阿茶の局に何かの時に家康に取り次いでもらって申し上げようと頼み、そうする段取りとなった。
 ある時『御咄の間』で家康が老中を招いて雑談をしているところに、阿茶の局が「笹ちまきが風味がよいので」と三方(角形の折敷(おしき)に、前と左右との三方に穴のあいた台のついたもの。多く檜の白木で作られ、古くは食事をする台に用いたが、後には神仏や貴人へ物を供したり、儀式の時に物をのせるのに用いる。三宝)に乗せて家康に差し出すと、話を切り出した。
「去年の御出陣は首尾よく和議となり、めでたきことにございます。また近日、名古屋での御婚礼の儀、お祝い申し上げます。そこで侍達に何か差し上げてくださいませ」

名古屋城
名古屋市中区本丸にある尾張徳川家の居城・名古屋城

 家康は途端に不機嫌になってしまう。
「侍達に祝儀を出すことは分かっているが、今更出すと『敵を恐れて金で侍達の心を引き止めようとする』と噂になる。金銀がもらえないので共ができないというなら、勝手にすればいい!私は一人でも上洛する!」
 激怒した家康はその後、長篠の合戦で自分の配下を頼りにせずに、織田信長の兵を先に出して勝利したこと、小田原征伐で粉骨したこと、関ヶ原の戦いで誰にも頼らず自分の計略で勝利したことなどを引き合いに出して延々と説教をした。
 困った阿茶の局は「めでたい、めでたい」とばかり言って、その場から逃げた。もちろん本多正純らは一言も言葉を発しなかった。(『村越道伴覚書』)

阿茶の局の墓
京都市下京区の上徳寺にある阿茶の局の墓

UPDATE 2006年1月26日
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