大柑子

 豊臣軍の薄田兼相は博労淵の戦いで受け持っていた砦を留守中、蜂須賀至鎮軍などに攻め落とされ大坂城に逃げ帰った(博労淵の戦い)。
 1615年春、豊臣家の重臣達が集まっての軍議の席に兼相も参加していたところ、少年が兼相に近寄ってきて、大柑子(現代の夏みかんのようなもの)を見せた。
「この大柑子を御覧なされよ。なんとも見事ではございませんか」
「誠に美しいものでござる」
「この大柑子は人に例えると薄田殿。見た目は立派だが中身は悪く食せない。うわべと中身は大違いでござる」
 この屈辱を晴らすため兼相は夏の陣の道明寺の戦いで奮戦し戦死した。ちなみにその少年を焚き付けたのは大野治長だったという。(『武者物語』)。

薄田兼相の墓
羽曳野市誉田7丁目679にある兼相の墓

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