団右衛門の経歴

 塙直之(団右衛門)の前半生ははっきりとしていない。そこで各史料にある直之の経歴を下記に記す。

 塙団右衛門は小早川隆景の家臣・瀧権右衛門に仕えていたが、故あって浪人となり貧乏した。そこで木村重茲の小姓達が不憫に思い衣装などを与えて面倒を見た。そして小姓達の口添えで団右衛門を加藤嘉明の家臣にしてもらった。団右衛門は350石を与えられ、朝鮮出兵で活躍した。
 しかしそこも去って小早川秀秋の家臣となり1千石を与えられた。だが小早川家が改易されたため浪人となり、松平忠吉の家臣・小笠原監物の扶助を受けた。そして大坂の陣が起こると入城し討死した。(『武功雑記』)

塙直之の母の墓
名古屋市西区大野木の福昌寺にある直之の母の墓

 塙団右衛門は元は上総のようろの崎という所の出身で、玉縄城の北条綱成の家臣となった。その次に加藤嘉明に仕え朝鮮出兵で活躍したが浪人となり、健仁寺両足院で学問をして武者小路に住んだ。これは団右衛門の一味の赤尾という勾当(盲人の官の一つ。検校、別当の下、座頭の上位にあたる)が語ったものである。(『武功雑記』)

 塙団右衛門は大坂冬の陣当時、60歳程で上総養老の里の生まれの者だ。千葉家の筋の家来だったが、やがて玉縄城の北条綱成の家臣となった。小田原征伐後、加藤嘉明に仕えて、朝鮮出兵で番船を乗っ取るという功があった。(『土屋知貞私記』)

塙団右衛門の墓
大阪府泉佐野市南中樫井にある団右衛門の墓

 塙団右衛門は元は遠江大須賀の出身で、立身出世を夢見て上方へ行き、時雨左之助と名乗り、加藤嘉明に仕え出世し1千石取の足軽大将となった。しかし関ヶ原の戦いで嘉明の命令を聞かず自分勝手に足軽を指揮したため、嘉明は激怒。
「人の頭になれない男だ」
 そう言うと団右衛門を追い出した。そして奉公構い(秀吉が考えた方法で、元雇っていた大名が「この者は問題があるので雇うのはやめてください」という回状を諸大名に発するもの)にあって他家へ仕官出来ず、妙心寺で入道し鉄牛と号した。(『老士語録』)

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