幸村の首(その1)

 天王寺・岡山での最終決戦真田幸村松平忠直軍と戦って勝曼堂生靈で討ち取られた。しかし討ち取った当の西尾宗次は、その立物に抱角打った兜の首が誰のものか分からなかった。
 しかしその首を見た原隼人正貞胤が
「ああ…これこそ真田幸村の首だ。去年、茶飯を飲食した時に(地獄での再会)この兜を見た。その際、『大した敵でないなら名乗らないで討ち死にする。そうすると無名の武将の首だと思われて捨てられるだろうから、もしこの兜を見たら私の首と思い、元同僚の情けで名乗り出てくれ』と幸村が言っていた」
 と語った。
「討ち死の姿を見てただの葉武者だと思っていた。そう言えば乗っていた馬は本間太郎兵衛が取っていった。馬を引かせてこよう」
「その必要はない。その馬が本物なら口を開くと前歯が二つ欠けている」
 宗次がくつわを持って馬の口を開き確認すると、貞胤の言った通り前歯が二つ欠けていた。

真田幸村像
大阪市天王寺区玉造本町の三光神社にある真田幸村像

 本物の幸村の首だと分かった宗次は思わぬ手柄に喜び、徳川家康に首を見せた。
「幸村は名乗った後、抵抗してきましたが何とか討ち取りました」
「真田ほどの剛の者がお前ごときの葉武者に会って名乗るものか。話を誇張しおって」
 家康は宗次の嘘を見破り立腹。しかし一緒に御宿政友の首を持ってきた野本右近に褒美をやったため、仕方なく同様の物を与えた。
 この首実検の際、家康は幸村の叔父・真田信尹を呼び出して問い糾した。
「これが幸村の首だ。ところで眉の内に傷があるが、これは何時どこで出来たものか?」
 しかし信尹が
「幸村に傷はありませんでした」
 と答えたため、家康は激怒し叫んだ。
「お前を去年2度も幸村への使者として遣わしたのに、傷を知らないとは直接対面していなかったのか!」
 これには信尹が迷惑した。傷に気がつかなかったのは、夜での対面でしかも信尹が老眼のためだった。(『難波戦記』)

UPDATE 2005年5月9日
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