お家を滅ぼす

 1615年4月、両将軍が出陣するという噂を聞いた豊臣軍は、盗賊数十人を京都に潜入させる。そして徳川秀忠が出陣した後に放火させ、大坂からも出陣し挟み撃ちしようとした。しかし秀忠の出陣が延期となり、計画に齟齬が生じてきた。
 かねてより板倉勝重は京都中に「他から来る者はよく調べるにように。訴え出た者には金銀を褒美として渡す」とお触れを出していたが、それが功を奏して岡村喜左衛門という者が訴え出た。その情報で町役人は盗賊を捕まえて拷問にかけた。

 盗賊らは拷問に耐えかねて計画を白状する。
「28日に両将軍が出陣と聞いたので、それに合わせ京都をすべて焼き尽くす予定だった。しかし出陣が延びたので発覚してしまった。この計画の責任者は古田重然の茶道・宗喜だ」
 そこで重然がこの計画を知らないわけがないということになり、重然を含む親子6人が切腹させられた。
 宗喜がなぜ計画の責任者になったかというと、法師の身分なのにプロの博打打ちとして生活していた。しかし最近になって負けが込んできて、家財や衣装をすべて剥ぎ取られ生活に困っていた。そこに豊臣軍から火付けのことをもちかけられ、金のために主人の恩を忘れて悪事に荷担したという。(『難波戦記』)

京都市
現在の京都市

管理人・・・その後に続く言葉は『日頃扶持をしてもらっていた主人の命まで滅ぼすとは憎んでも余りあることだ』となっています。

Copyright (C) 2003 Tikugonokami.